無意識日記
宇多田光 word:i_
 



取り敢えずホッとした。安堵の表情。今夜は放送あるのね。あんまり期待をかけすぎてもプレッシャーになるだろうしとHikaruのやる気に気をつけながら色々書いてたもんだから肩が凝ってた。漸く肩の荷が下りた気分。

そうやって気が楽になってみると、急に番組の放送が楽しみになってきた。もう最近は何でも録音録画で済ませる習慣がついていて、自分のペースに合わせてコンテンツを消化する癖がついてしまっているのだが、熊淡については、こどもの頃のアニメ鑑賞のような「一刻も早く続きが観たい」モードに突入してしまっていて、いやもうリアルタイムで聴く以外の選択肢は有り得ない。ラジオを肌身離さず持ち歩く習慣を持っている人間でよかったぞ自分。

やっぱり、あの番組聴くの楽しみなんだよ。楽しいんだよ。だから、Hikaruの事を考えなければ、多分自分は月の初めあたりから「今月の納品まだー?」と毎日メンションを送り続けたりしてしまうかもしれない。流石に実際はやんないけど、気持ちとしてはそんな感じ。毎週の甘酔も毎回超絶楽しいが、"今"のヒカルの声が聴けるというのは筆舌に尽くし難く嬉しい。歴史上の人物と同じ時代を生き同じ言葉を話し聞く奇跡。日本語も英語もちょっとずつ聞き取れる人間でよかったぜ自分。

むむむ、という事は、今夜はまだ時期尚早かもしれないが、ゆくゆくはイタリア語でのDJっぷりも聴けるのかもしれない。それは聞き取れないっつーのこんちくちょー。せめてイタリアン・プログレでも聴きながら耳をイタリア語に慣らすとするか…宇多田ヒカルがバイリンガルからトリリンガルに…これでイタリア語圏のファンが喜ぶ&増えるすれば僥倖だな。ますます国際色豊かになるぜ。

あんまりイタリアづいているけれど、ちょっと前までヒカルの第三言語候補といえばフランス語だった。愛のアンセムのフランス語パートは友達のフランス人から発音を賞賛されたそうだし、何といっても最大の代表曲「ぼくはくま」の中間部はフランス語による自己紹介である。そりゃもうフランス人と付き合ってるのかな、てことは不倫相手になるよな、と当時は思ったものだ。後に「私恋人に浮気した事があります」発言しちゃうんであんまり洒落にならない妄想になっちまいましたがね…。

それに関連して今朝いいアイデアが思いついていたのを思い出した。今後はHikaruもいろんな国でLIVEを行い、即ちその度にぼくはくまを歌うかもしれないが、ならばその、オリジナルではフランス語での自己紹介になっている部分を、その都度その土地の公用語で歌うようにしたらどうか。つまり、イタリアではイタリア語で、ロシアではロシア語で、「こんにちは、ぼくのなまえはくまです。ごきげんいかが?」という意味の文章を歌うのだ。これは間違いなくウケると思う。こういう曲調だから少々発音が怪しかろうが(Hikaruなら大丈夫そうだけど)間違えようが微笑ましい雰囲気が増すだけだろう。何より、こうする事によって、あらゆる国の人々にとって「ぼくはくま」が特別な歌になる。それはHikaruにとってもとっても嬉しい事なのではないか。

ただ一つ、しかし、問題があって。じゃあ日本ではあそこどう歌えばいいんだろうか。オリジナル通りならフランス語だが、日本とフランスが同じバージョンってのもちょっと変な気がしなくもない。まぁ、大した問題じゃないな。


…こりゃ次のLIVEdvdの特典映像は「各国公演でのぼくはくま大全集」になるな。間違いない。さぁラジオを聴こうじゃないか。

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んもー、結局こうやって放送当日の朝を迎えるのか。どういう気分になればいいのやら。

Hikaruの肩に力が入ってるのはよくわかる。みんなわかってる。今でも、イタリアに出来た新しい家族をどう守ろうか常に考えている筈だ。私が最初に思ったのは、イタリアの大家族、みんなが目立ちたがり屋だったらどないすんべという事だった。つまり、地元の取材大歓迎、うちらの家族が新聞雑誌に載っている!こりゃめでたい!宴だ宴!というノリだったら杞憂に終わるんちゃうんかと。寧ろそういう無邪気無防備の方がタチガワルイとも言えるかもしれないけれど、大家族の気質として、怒る時も笑う時もぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー騒がしかったりしないのかな、とな。しんみりした大家族ってあんまり想像がつかない。単純に、黙ってると注意がこっちに向かないので、自分からアピールしていくのが習慣になっていくのだ。これがひとりっこだ核家族だとなると、家族の視線が自分に集中し過ぎて鬱陶しい、ちょっとはそっとしておいてくれたまへ、となる。育ってきた環境が違うから、とはよく歌ったもので、それによってどのような状況を好むかはまるで違ってくる訳だ。

だから、多分、世の中にはヒカルがあんな風に人の視線に疲れてるのにピンと来ない人も多いだろう。歌い終わった後に「どうしてみんな私の方を見ているの」となるのは、至って自然な事なのだが、どちらかといえば笑い話だわな、うん。

なので、ファンとしてはバランスが難しい。期待をかけすぎてもプレッシャーになるし、かといって全く関心を払わないとやる気を削がれる。誰だってそうなのだが、Hikaruの場合、例えばTwitterだと150万人もフォロワーが居たりして、スケールが大きすぎる。そしてそのほぼ全員が、メディアを通した彼女をイメージのベースとして持っている。まずHikaruが最初に格闘しないといけない相手は、その作り上げられた自身の虚像なのだ。

まだそんなものが出来上がってない頃のSweet&Sourは、ほんに気楽に聴ける。あの頃に戻れとは言わないし、そういう人生を築き上げてきたのだからそれにはそう対応するとして、なんだろう、貴方の居ない間も貴方を想っている人たちにとっては、ラジオの一時間ってほんの一時間でしかなくて、その一時間以外の時間をどういう気持ちで過ごせばよいのかを示唆させる為の一時間でもあるのだから、そこだけクリアすればいいというのでもなく、それを含めた毎日の時間の流れ総てが貴方と私(たち)の物語なのだから、言わば、総ての文脈を包含した物語全体が貴方の作品なのです。だから、ラジオの一時間がどれだけ楽しい時間だとしても、小皿にのった懐石料理が一品運ばれてきているだけで、確かにその一口は美味しいし、みんなその一口の為に日々頑張っているんだけど、それで満腹にはならないし、必要な力が漲ってくる訳でもない。気持ちの問題といってしまってはそれまでだけれど、何だろう、つまり、結論からいえば、Pop Musicianとしての生き方が
成立しない状況に入りつつあるのかな、という気はする。さてこの話の続きはいつになるやら。

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