無意識日記
宇多田光 word:i_
 



宗教観というのは音楽家にとって非常に大きい。そもそも、人類史上最高の音楽家である大バッハのモチベーションは宗教音楽であったし、彼による最高傑作の誉高き「マタイ受難曲」も、キリストの受難をモチーフにした楽曲である。音楽の動機としての宗教は、非常に強力たりえる。

したがって、Utada Hikaruという音楽家の宗教観に何らかの変化があったとすれば、これは全く見過ごせない。彼女が誰と結婚しようがある意味どうでもいいが(勿論そんな事ないけどね)、音楽に対する影響があるというのならやや踏み込ませて貰おう。

フランチェスコ君の故郷は、敬虔なクリスチャンの多い地域だという。しかも、イタリアだけあって随分とカトリックの色が濃いそうな。キリスト教やユダヤ教の宗派や教典がどうなっているかは門外漢の私にはちんぷんかんぷんだが、仮にカトリックの家に"嫁入り"するとなればこれはHikaruもかなり"譲歩"する事になるだろう。

今回の結婚が前回と異なるのは、いきなり"家族"の話が出てくる事である。我々は岩下家については余り知る事がなかったが、フランチェスコ君の家については、勿論具体的な名前は出てきていないけれども、Hikaruも彼も積極的に言及している。

恋人としての交際や同棲と結婚の、子を産み育てる以外での大きな違いは家族だ。義父や義母をおとうさんおかあさんと呼ぶのだから。フランチェスコ君の方も早速照實さんを「第二の父」として敬う態勢に入っている。彼もまた、今回の結婚が"宇多田家"との結婚である事を強く意識しているのだろう。

そして、大家族。そこに居る人たちが仮にクリスチャンばかりだというのなら、郷にいれば郷に従え、When in Rome, do as the Romans doである。まさにイタリアでそれが実践されるのだ。Hikaruは、クリスチャンとしての作法を学ばなければ、家族に溶け込めないだろう。

後は、彼の家族がどこまで寛大であるか、だ。改宗や洗礼を強く勧めてくるのか、国際結婚なだけに、Hikaruの宗教観を尊重するのか。各宗教を相対化して眺めてきたHikaruにとって、この領域は全く新しい体験になるだろう。果たして、どこまで踏み込むのか。まずは、結婚式の模様は写真で紹介してくれるらしいので、その様子をみて判断したいと思う。あらら、まだ2ヶ月以上先かいな。

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ツイートとチャットのまとめ。Hikaruはそんなにキリスト教的世界観に共感していない。あクマで部分々々の話で、気に入ってる所もあればそうでない所もある、という話なんだけれど。

ヒカルが1stアルバムを作っている時にプロデューサーから「アダムとイブ」即ち聖書の創世記に出てくる2人を題材にした歌を作ってみるのはどうかと提案された時、その2人の物語には共感出来ないとしてボニー&クライドの歌を作った。それがB&Cである。

You Make Me Want To Be A Man のPVをキリヤンと作った時。これはUtadaの英欧デビューに合わせて制作されたものだが、その内容は、そのアダムとイブの物語を女性主体にして作り替えるという大胆なものだった。一言でいえば反・創世記。原理的なキリスト教徒が見た時の意見を訊いてみたいところだが、そもそも見せちゃいけない気がする。詳しい話は「You Make Me Want To Be A Man のPV」でググれば一万字のエントリーが出迎えてくれるからそちらを参照の事。

「愛のアンセム」の日本語詞の部分。大体は元々のフランス語歌詞と内容的には同じなのだが、最後の部分だけやや書き換えてある。原詞では要約すれば「死んでも2人は天国で永遠に結ばれる」という風に歌を結んでいるのだが、ヒカルはここを「生まれ変わっても」と仏教的輪廻転生の世界観に持ち込んでいる。キリスト教の世界観では人間と他の生物をハッキリと断絶させるという立場から、生まれ変わりの世界観は教義と相容れないらしい。ホンマかいな。進化論が信じられていないという話もそこらへんから来ているんだろうけれど。

斯様に、幾つかの点でキリスト教の教義から離れた、人によってはアンチ・クライストともとりかねない考え方を披露してきたHikaruが今度結婚する相手がどうやら敬虔なクリスチャンだという事で、現在やや戸惑っている。例のメッセージでフランチェスコくんは英語でいうところの「The Lord」について言及していた。恐らくHikaruによる日本語訳では「神」と訳されている部分だ。しかし本来ならこれは、キリスト教の習慣に則って「主(しゅ)」と訳すべき部分である。果たしてこれは、キリスト教に馴染みのない我々一般の無宗教な日本人に配慮したものなのか、それともさほどこだわりがないのか、敢えて主という表現を避けたのかは現時点ではわからない。取り敢えずはカトリックの教義に則った結婚式を挙げるというのなら、少なくともその時までは、穏便に事が進むように願うばかりである。

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