スーツケースやキャリーバッグを持ってる人がちらほら居るな〜いやはや、気が早いというか1日早くお休みをとったということなのか。うん、夏休みなんだねぇ。
夏休みといえば、そうね、ダラダラと映画やアニメを寝っ転がって観続けようかなと怠惰な事を考える。ポップコーンやポテトチップスをつまみながら…こういうのカウチポテトって言ってたなぁと思って意味を調べてみると、ちょっと微妙に違っていて元々は「ソファー(カウチ)に座り込んだ(寝そべった)まま動かず、主にテレビを見てだらだらと長時間を過ごす人を、「ソファーの上に転がっているジャガイモ」にたとえて揶揄または自嘲した、アメリカの俗語的表現」だったと、Wikipediaには書いてあるな。
同じ言葉でも違う文化圏に触れたら異なる解釈をされる。この場合はポテト、じゃがいもというモノに対する日常的なイメージや接し方が米国と日本で異なっていたということか。ポテトといえば米国ではごろごろ転がっているもの、日本ではまずポテトチップスだったんだろうかな。
まぁそれにしたって歳取ると映画やアニメを観るのも結構疲れるものでな…。いやそれはいいんだけど。
日本の商業音楽も、こと音楽性に関しては20世紀の間は米国のものを輸入することが多かったが、そのままの解釈では日本に馴染めず、それなりにアレンジして&ローカライズして市場に咨る事が多かった。
宇多田ヒカルがデビューした時は、ニューヨーク出身ということもあって、そのリズム感の「日本人離れ」っぷりが話題になった。ヒカルのリズムの解釈は日本人のそれではなかったのに、歌う歌は日本語だったからそれが斬新で受け入れられた、という側面もあった。
問題は、そこからだ。ヒカルは少しずつDTM、デスクトップミュージックで音楽を構築していくようになり、R&Bのリズムはその中で相対化されていく。で。いつも言ってるように初期のヒカルはDTMに備え付けのリズムループを基調にしてコード進行とメロディをつけていく事が多かった。
DTMデフォルトのリズムループは、その多くが結局は米国の大衆音楽由来なので事態は変わらないかと思いきや、ヒカルは独自路線を貫き今に至る。日本語という縛りとの兼ね合いの中でリズムパターンも決まってきた気がするな。
UGFでのTAKUさんによるリミックスの数々をみて、そもそものヒカルの楽曲のポテンシャルの持つ多様な可能性について考えていた。例えば『Too Proud』に関しては、ラフダクのそれとUGFのそれでは、聴衆の反応が全く違う。『踊らにゃ損・損!』でコール&レスポンスが成立するとか楽し過ぎるだろ…というのもあったし、あとラップパートね。ラフダクでは日本語だったけどあれはCD化はされてない。UGFでは確か他国語だったはず(なんでうろ覚えやねん)。そこでのグルーヴの違いをどう捉えるかということで、「同じ曲でも日本と米国でリズムの解釈が異なっていく話」に帰着する。そう、カウチポテトが導入だったのはそれでだよ。…なんなんだよ?(笑)
ファンの濃さの違いもある。Wall & Wallに集いし「ガチ勢」の若いみなさんならノリノリで踊ってくれるだろう一方、アリーナに集まる老若男女にはラップも日本語の方がわかりやすくて楽しいだろう、という対比。ラフダク自体、踊らせたがってたSFとはコンセプトが異なって聴かせる意志が強かったしな。
それを考えるとSFツアーで『Find Love』か『キレイな人(Find Love)』をやらなかったのはもったいなかったな。ITF 2010の『Passion & Sanctuary』のような繋ぎ方もあり得たし、そこで日本語の作るグルーヴと英語の醸し出すグルーヴの違いを浮き彫りにするのも面白かっただろう。
結局の所その自在性は、ヒカルがバンドセッションやジャムや個人の楽器演奏ではなく、DTMで曲作りをしているという形態に根源がある。解釈の多義性の由来を吟味しつつ、各自としては会場では思い思いに音楽を楽しんでいきたいところなのでした。