そういやそうか、前に読売KODOMO新聞でクマについて熱弁ふるってたなと読み返す。
『遠い昔から、北方ユーラシアのゲルマン民族、ケルト、アイヌなど、様々な民族にとってクマは「神様」でした。また、「力強さ」だけでなく「母性」「癒し」「知恵」の象徴であるクマを、自分たちの祖先とする国もあります。昔から人はクマに親しみを感じていたようです。旧人類ネアンデルタール人の時代の洞窟から、不思議な形に並べられたように見えるクマの骨が発見されており、もしかすると私たち現生人類の歴史よりも、クマ崇拝(クマ好き)の歴史は長いかもしれないのです。』
https://www.yomiuri.co.jp/kodomo/fromeditor/notice/20210713-OYT8T50023/
「ぬいぐるみのクマを溺愛する女性シンガー」という肩書きの人にコメントを依頼して期待される内容ではまるでないのだが普段からかなりしっかりと調べてるのだなというのがよく伝わってくるコメントだ。ヒカルさんの熊への愛が現実にも向いてるのがよくわかる。
それはそれとして。最近もたびたび「熊の駆除にクレームが」といった記事を見かける。ヒカルさんもこういうニュースは悩ましいだろう。ここでは折角なのでマスメディアでは書けないことを書いておくか。
気候変動や人口減少で住環境が変化して熊が人里に降りるケースが増えているとかいないとか。駆除の是非はケースバイケースだろうから素人が口を挟むものではないと私は思っているけれど、ここぞとばかりに動物愛護を批難する言説が目を引く。クレームの電話が長過ぎるのはダメというのはそれはそう。内容に関係なく。それも置く。
人ひとりずつ違うのだろう。「できれば動物を殺したくない。」という人と、「動物を殺したい」という人と。熊の駆除の報道があるたび、後者の人たちは活き活きとしている。素直に感想を言えば、実に嬉しそうである。
現代社会では「動物を殺したい」と公言できる雰囲気はない。だが、元々ホモサピエンスは雑食だし、身を守るためにもさまざまな野生生物と縄張り争いをしてきた。なんだったら交配可能な人類相手でも潰し合ってきたのだから、好戦的な遺伝子が淘汰上有利にはたらいてきた環境もあっただろうと想像はつく。事の真偽は兎も角、つまり、ヒトの残虐性は何百万年も培われてきたものなので、現代でもそうそう衰えてはいやしないのではないかと。
現代は身体的暴力を伴わないハラスメントであっても社会から弾き出される。そんな状況で「残虐な本音」を吐露する事は大いに憚られるだろう。そんな時に熊は捌け口を与えてくれているのだという気がしてならない。熊の駆除であれば、ある程度残虐な事を主張しても社会的に許される。彼らは、ここぞとばかりに自らの残虐な感情を吐き出しているのではないか。普段の鬱屈からすれば、活き活きするのもむべなるかな。
法律や倫理や道徳以前に、「動物を殺したくない」と素直に感じている向きからすればとても許容できる話ではないだろう。だがそれ以前に、熊の駆除という現実の問題を、単なるストレス解消として消費している彼らの見かけを取り繕っただけの主張に惑わされる事があってはならないと思う。偶然正解してるだけかもしれないものについていくのは命取りな行為だ。残虐性の発露については、当人ですら無自覚な事がよくある。そもそもこんな話マスメディアじゃみれないからね。問題意識自体にすら気づけない。
なので、現実の対処は、彼らの言う事も基本無視するべきだ。勿論中には有意義な提言もあるだろうけど、全部無視した方が全体の効率は遥かに上、かな。野生動物との共存は大変に難しい。結局、専門家に頼るしかないんだと思われる。まぁでも確かに、災害対策や害獣対策の法整備が未発達なようなので、そっから話を始めないといけないだろうな。
…読者としてヒカルさんを想定したらこんな内容になっちゃった。今日も暑い。