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無意識日記
宇多田光 word:i_
 



そういやそうか、前に読売KODOMO新聞でクマについて熱弁ふるってたなと読み返す。

『遠い昔から、北方ユーラシアのゲルマン民族、ケルト、アイヌなど、様々な民族にとってクマは「神様」でした。また、「力強さ」だけでなく「母性」「癒し」「知恵」の象徴であるクマを、自分たちの祖先とする国もあります。昔から人はクマに親しみを感じていたようです。旧人類ネアンデルタール人の時代の洞窟から、不思議な形に並べられたように見えるクマの骨が発見されており、もしかすると私たち現生人類の歴史よりも、クマ崇拝(クマ好き)の歴史は長いかもしれないのです。』
https://www.yomiuri.co.jp/kodomo/fromeditor/notice/20210713-OYT8T50023/

「ぬいぐるみのクマを溺愛する女性シンガー」という肩書きの人にコメントを依頼して期待される内容ではまるでないのだが普段からかなりしっかりと調べてるのだなというのがよく伝わってくるコメントだ。ヒカルさんの熊への愛が現実にも向いてるのがよくわかる。


それはそれとして。最近もたびたび「熊の駆除にクレームが」といった記事を見かける。ヒカルさんもこういうニュースは悩ましいだろう。ここでは折角なのでマスメディアでは書けないことを書いておくか。

気候変動や人口減少で住環境が変化して熊が人里に降りるケースが増えているとかいないとか。駆除の是非はケースバイケースだろうから素人が口を挟むものではないと私は思っているけれど、ここぞとばかりに動物愛護を批難する言説が目を引く。クレームの電話が長過ぎるのはダメというのはそれはそう。内容に関係なく。それも置く。

人ひとりずつ違うのだろう。「できれば動物を殺したくない。」という人と、「動物を殺したい」という人と。熊の駆除の報道があるたび、後者の人たちは活き活きとしている。素直に感想を言えば、実に嬉しそうである。

現代社会では「動物を殺したい」と公言できる雰囲気はない。だが、元々ホモサピエンスは雑食だし、身を守るためにもさまざまな野生生物と縄張り争いをしてきた。なんだったら交配可能な人類相手でも潰し合ってきたのだから、好戦的な遺伝子が淘汰上有利にはたらいてきた環境もあっただろうと想像はつく。事の真偽は兎も角、つまり、ヒトの残虐性は何百万年も培われてきたものなので、現代でもそうそう衰えてはいやしないのではないかと。

現代は身体的暴力を伴わないハラスメントであっても社会から弾き出される。そんな状況で「残虐な本音」を吐露する事は大いに憚られるだろう。そんな時に熊は捌け口を与えてくれているのだという気がしてならない。熊の駆除であれば、ある程度残虐な事を主張しても社会的に許される。彼らは、ここぞとばかりに自らの残虐な感情を吐き出しているのではないか。普段の鬱屈からすれば、活き活きするのもむべなるかな。

法律や倫理や道徳以前に、「動物を殺したくない」と素直に感じている向きからすればとても許容できる話ではないだろう。だがそれ以前に、熊の駆除という現実の問題を、単なるストレス解消として消費している彼らの見かけを取り繕っただけの主張に惑わされる事があってはならないと思う。偶然正解してるだけかもしれないものについていくのは命取りな行為だ。残虐性の発露については、当人ですら無自覚な事がよくある。そもそもこんな話マスメディアじゃみれないからね。問題意識自体にすら気づけない。

なので、現実の対処は、彼らの言う事も基本無視するべきだ。勿論中には有意義な提言もあるだろうけど、全部無視した方が全体の効率は遥かに上、かな。野生動物との共存は大変に難しい。結局、専門家に頼るしかないんだと思われる。まぁでも確かに、災害対策や害獣対策の法整備が未発達なようなので、そっから話を始めないといけないだろうな。


…読者としてヒカルさんを想定したらこんな内容になっちゃった。今日も暑い。


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さてさて今週末日曜日は第2回UTADA GALAXY FESTIVAL (以下UGF2)ですわね。もう目前。

いやはや、あっという間にチケットがほぼほぼソールドアウトになっちゃって(故に当日券も出ないそうで)、あくせく宣伝する必要が全く無かったもんでここまで触れずに来たんだけど、そりゃ楽しみですわよ。第1回同様あたしゃ一切運営に関わってないので、完全にお客さんな為、純粋にワクワク気分でございます。

しかし、強運だなぁと思うのは、日取りが公式の日程と一切被らなかった事だね。いつ第2回の日取りを決めたのか知らないんだけれども、告知から4ヶ月以上空くので当然公式がその頃どう動くかなんて予測がつかない。例えばStationheadなんかの企画なら気を遣ってずらしてくれることも可能だろうけれど、宇多田ヒカルといえばエヴァとかキンハとかキングダムとか、ものすごいビッグ・プロジェクトとも関わってしまうので、そうなってくると日程なんてレコード会社の一存では動かせないよね。それを考えると、UGF2の時期に公式の予定が何も入ってないって奇跡というか、アトラス主宰はギャンブルに勝ったなぁと。

その代わり現在台風の脅威に怯えているそうですが、夏休みのイベントは全部そうなのでまぁこればっかりはしゃあないかな。

ここから5日間の間にどんな発表があろうと現地でみんなではしゃげる話の肴になるだけだろうしね。まぁでももともとお昼のイベントだから、公式が何をぶち込んできてもなんとかなったのかもしれないわな。抜き打ちのテレビ出演とかあったとしても幾ら何でも夜の番組だろうし。嗚呼、なんかのスポーツイベントで国歌を歌うとか? あっはっは、あんな政治信条の人が国内で国歌を歌うわけないじゃないですか(言い切ったな?)。国外ならわからないけども。何より、あの歌ってヒカルの持ち味あんまり活かせないしな。他の曲ならこの限りではなかろうが。

っと話が逸れた。UGF2の目玉は何といってもDJのお二人。MARMELOさんのHikkiファンぶりには毎回目を見張らされるし(あとメチャメチャ美人さんでしたルッキズム丸出しでごめんなさい)、TAKUさんなんかもうヒカルの継続的な共作者だからね! DJの合間にヒカルさんとの制作秘話とか語ってくれる暇、ないかな? あったら嬉しいんだけどねぇ。勿論本編にも期待。それこそ『Gold 〜また逢う日まで〜』のリミックスのプロトタイプとか持ってこられたら悶絶じゃね? (さっきも言った通り私は運営に一切関わってないので内容を何も知りません)(なので万が一予想が当たってたりしたら逆に気まずい…(笑))

ホント、99%SFツアーでやると思い込んでたからね『Gold 〜また逢う日まで〜』は。今回のUGF2でも99%やると思い込んでるのでよろしく! めっちゃフロアを盛り上げたアフタームービーをヒカルに見せつけて、SFツアーで歌わなかったことを後悔させてやるかなっ!そして「あら、これは次のライブでは歌わなくっちゃね」と思わせたい!

…という気概もあるにはあるんですか現在私夏バテ真っ盛りなのでそんな元気が当日に残ってるとはとても思えません。ほんとこの暑さをまずどうにかしてくれんか!(涙)





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昨日今日の宇多田共和国@Hikkicomの投稿を参照してくれればわかるかと思うけど、今日7月28日って

・2004年『誰かの願いが叶うころ』&『ヒカルの5』DVDリリース
・2006年『One Night Magic in Zep Osaka』
・2017年『Forevermore』リリース
・2020年『Time』MV公開
・2023年『Gold 〜また逢う日まで〜』リリース

https://twilog.togetter.com/hikkicom/date-250727
https://twilog.togetter.com/hikkicom/date-250728

って、過去26年で5つもリリース&イベントが重なってる歴代屈指の「記念日祭りな日」なんすよ。いや勿論12月9日と1月19日がもっとぶっちぎってるんだけどね。これだけ重なるとなんとか分散させるしかないってんでうちふたつを無理矢理二十七日に押し付けた(店頭陳列日とかティザー公開日とか)という内情がありまして。いやはや連日の嬉しい悲鳴でありました。

しかし、なんでこんなに重なるかね!? 夏ドラマの主題歌が重なって、ならわかるんだけどそれに該当するのは2017年の『Forevermore』だけだしねぇ。「美食探偵 明智五郎」は春ドラマだったしな。

これが、まだまだ今後も増えていくとしたらワクワクが止まらないやね。本来楽観的にみれば365日時々366日って一年ごとに曜日がひとつ時々ふたつズレていくので記念日ってあらゆる日に関して均されていくはずなんですがあクマでそれは平均の話で実際は20年30年経っても偏りは生じるのよね。それもそのはず、12月9日や1月19日は「なんであれ何かを公式発信する日」として固定されてるので、その前後のリリース間隔とかもそれに合わせて調整されたりするわけだ。リリース日は水曜か金曜にはなりがちなんだけど。

7月28日って、でも、その12月9日や1月19日からすれば地球の裏側みたいなもんで、影響受けそうにないんだけどな!? ますますわからん。まぁ、いいか。

読者さんの中には記念日に合わせてそのコンテンツを再生するなり何なりする方々も在られるとは思うけど、今日全部を堪能するのは休日でもない限り時間が足りないよねぇ。『ヒカルの5』と『UTADA UNITED 2006』のDVD(今ならBlu-rayか)をハシゴするとか大変だものね。まぁ、単独配信曲なら聴く時間あるかな! 長年応援してると、こういう日が得られるから嬉しいやね。



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今回たまたまユバルヒカル対談で話題になったからここぞとばかりに取り上げたけれど、「音楽と言語と嘘」というテーマについては、もともとこの日記でも何度か取り上げている。

「元々言語による交流は、ネット以前からコトの真偽を論うのが基本だ。言葉の本質は嘘だからだ。寧ろ、嘘というリスクを背負う事で「情報伝達」という概念が成立した。」
https://uh19830119.hatenadiary.jp/entry/20170609/1496963842

「言葉の本質は嘘」と言い切ってますね。ここの場合、“言葉”は“言語”に置き換えても成り立つ。故に、何かが言語だと主張がなされた場合、その何かの本質が“嘘”を持てるかどうかが大事なのよね。そこに思い至らなかった私は迂闊でハラリさんは優秀でした。しかも、対談というリアルタイム性の高い場でね。やっぱ知的な魅力のある人だ彼は。

次。

「メロディーは嘘を吐かない。ただ在るのみ。
メロディーで人を騙すのは本当に難しい。無理だ。勿論、着信音を間違って鳴らす、とか緊急地震速報の音だけを流す、とかで人を騙す事は幾らでも出来る。しかし、それは嘘を吐くのに利用されただけで、メロディー自体が嘘なのではない」
https://uh19830119.hatenadiary.jp/entry/20170630/1498817569

ここでは「メロディ」に限定しているが、同じようにリズムもハーモニーも嘘をつくのは苦手なのでその三要素から成る「音楽」自体もまた嘘をつくのは苦手なのでした。

そう、こういう話題は昔から無意識日記で取り上げている。日付を見たら両方とも2017年6月か。8年前ですね。何が言いたいかというと、これからもこういった話題を取り上げる可能性は大いにあるのだけどその度に「あの人まだ対談の話を引き摺ってるよ」と思われたくないからだ私が。違うのよ、これは恒久的に取り上げていくに値する、音楽と言語にとって、つまり、その2つから組み合わされている─或いは寧ろそれを発端として音楽と言語が生まれた大元だったかもしれない「歌」にとって、どこまでも追究していくべき大きなテーマなのだ。歌を生業にする宇多田ヒカルについて語るブログで何度も取り上げるのは至って必然的な事なんですっ。

この背景があるから、先週今週としつこく何度も語ったのでそこんとこはわかっといて欲しい。つまり、来週以降もことあるごとに語るかもしれないから今のうちにうんざりしておいてねってことですね。


という話を短めに切り上げて唐突に言いたくなった一言が生まれたので記しておく。

「『Letters』大好きぃぃっ!」

あぁすっきりした。

うん、SFツアーでも二曲目に歌われたのでこの歌もただ懐かしいだけの歌ではなくなってるのだけど、改めて聴いてるとホントこの曲は素晴らしいね。今回の同曲のライブ・バージョンのリズムの強さは『Electricity』と対になっているようにも思えてとてもいい。キラーフレーズが『いつも置き手紙』だから『Letters』というタイトルは「いくつも貰った手紙」の意味なのだけど同時に「文字たち」という意味もあり。書き文字だね。

それでふと疑問に思ったんだけど、冒頭で『暖かい砂の上を歩き出す』じゃん? そのままの流れで私『今日選んだアミダくじの線』って砂浜で手で描いたものを想像してたんだけど(え、過去23年間ずっと?)、もしかしてこれって別に砂浜に描かなくてもいいやつ? その上、なんだったら『置き手紙』も砂浜の上の文字なりサイン(脱ぎ捨てられた靴でもサングラスでも何でも)なりを想像してたりもしたんだけど、皆さんはどう捉えていたのかな。『この海辺に残されていたのはいつも置き手紙』。これを普通の紙の手紙と解釈するのかどうなのか。

というのもさ、2番の同じ箇所で

『この窓辺に飾られていたのは
 いつも置き手紙』

ってなるじゃん? 置き手紙を“飾る”ってのはさ、紙に文字を書いた普通の手紙じゃなくて、一輪の花とかそういうサインで「いなくなったとわかるもの」が“飾って”あったからじゃないの? どうなん? 皆さんも是非、考えてみてくださいね。


、、、なんて風にライブ・バージョンを聴いてたらますます「ああこの歌好きだー!」という気持ちが増してしまい。いやぁ、ヒカルの歌って、聴けば聴くほど好きの気持ちが深くなるよね。これからも何度も聴いてますます好きになるよ。


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朝の5分押しはなかなかにスリリング…と思ってたら電車も5分遅れてた。大概そんなん。

そういやユヴァル・ノア・ハラリ氏がシオニストだから云々というツッコミを2、3見かけたのだけど、彼はイスラエル出身ということなので発言が慎重になるのはやむを得まいだろうに。わたしも中東の歴史には全く明るくないので特に口を挟む事はしないけど、多分私に「あなた日本人でしょ、オウム真理教の信徒だよね?」と訊かれるようなものなので、流石に何を言えばいいかわからないだろうなぁと。

『Mine or Yours』がリリースされてから、政治クラスタからのツッコミが増えてる気はするのだけど、それくらいまではヒカルも想定内だろう。自分が訝しむのは、「リスナーの分断に加担する」可能性をどこまで考慮していたのか、どれくらいに見積もっていたのかという点だ。

歌や音楽で作られているクラスタは「政治的主張の違いは一旦置いておいて」みたいな所があるので、敢えて政治を話題に出すと、割れなくていいものが割れる。それだけならまだしも離れていく人が増えるとなると、ヒカルにどう思ってるのかは訊いてみたくはなる。

一方で、ヒカルさんの“政治的立場”みたいなもんは今の所ここまでの発言を総合すると終始一貫しているので、“相反する立場”に在りながら宇多田ヒカルの音楽に親しんでる皆さんは居心地悪くならないかなというのは昔からほんのちょっぴり思ってる。特に敬虔なクリスチャンの皆さんは、キリスト教から一程度の距離を置いて憚らないヒカルさんの態度をどう捉えているのやら。訊いてみたい。

キリスト教といえばエルサレムが聖地なので(大雑把だな)、シオニズムに対しての考えもあるだろうな。現行では今や日本国内が最も「表現の自由」を享受できる場になりつつあるので(半年も経てばまたどうなってるかわからないけどね)、今後歌詞にキリスト教とは相容れない“思想”が含まれるとしたら、特に英語で歌われるとしたらちょっと色々悩ましい。だけれど、『Mind or Yours』で思い切った、吹っ切れたのだとすれば、昔から変わらない“政治的立場”に対して社会的な責任を背負う気なのかな。重い。

何もないのなら、こんなこと考えなくていいんだけどね。SFツアーで敢えて『誰かの願いが叶うころ』を歌った事を思い出すと(というか日々ライブ盤で聴いていると)かなり踏み込んだなというか、日本語圏の様子がかなり偏ってる為に相対的にこう見えてるということなのかなぁ。石破さんが護憲寄りの政党から応援される世情なんて昔は想像もしてなかったからね。ふむ、もうちょい考えてみるか。


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今回は10回に1回くらいやってくる「書きたい事を書くターン」です。


「想像力は現実を見る力」なのだと言いたい。

どうしても、「想像力が豊か」な人は妄想、即ちありえない事を思い浮かべる事が得意な為、目の前の現実から逃げていると言われがちだ。自分の世界に入ってますねとかって呆れられる。

しかし、世界は広いのだ。もし人が、自分の目に入るもの、耳に聞こえるもの、嗅げるもの味わえるもの触れれるもの“だけ”を認識して生きているとしたら、広い世界の殆どを無視している事になる。つまり、本当の現実の殆ど総てから目を逸らしているのだ。このデッカい世界のうちのほんのちょっとの情報しか仕入れていない。それを何とか補えるのが想像力だ。

感情は現実である。しかし他者の感情は推測するしかない。実際にどう感じているかはわからない。それを、表情や文脈などを考慮し推測し、何とかわかった風を装いながらコミュニケーションをはかる。これを多岐に渡り世界の広さに合わせて繰り広げるとなると基本となる想像力が逞しくないとやっていられない。

特に、他者の苦痛を想像する事は重要だ。この星に住むホモ・サピエンスの間でなかなか戦争が無くならないのも、他者に対する想像力が足りないからだと断言したい。交渉も交配もできる間柄なのにねぇ。例えば「もし自分がガザに住むしかないとしたら」と想像できれば、あんな惨たらしい状況のまま放置したりしない。放置どころかより悪化させとるな。想像力が無いと、そこに感情のある人間が住んでいて、心身の健康と安全を損ねていると気がつかない。怒りや悲しみや弱さによって、意図的に想像力に蓋をしているのかもしれないけれど。

自己とすべての他者の苦痛は世界の苦痛であり、それを取り除こうとしないならヒトは滅びていくだけである。想像力の欠如は破滅への最短路といえる。ふう、言いたい事大体終了。


亡くなった渋谷陽一は「ポップ・ミュージックは他者の音楽である。」と言った。宇多田ヒカルは「他者と居ることで痛みが癒やされる。他者と居ない事で、痛みが戻る。」と言った。想像するしかないはずの他者の感情と感覚を様々なやり方で乗り越えたり繋げたり溶かし合ったりするのがポップ・ミュージックなのだとすると、宇多田ヒカルは明らかにその真髄を極めている。事あるごとに孤独を歌うのは、その痛みをまず感じなければ他者の存在が生まれないからだ。旧劇版の「エヴァンゲリオン」は最後に「⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎い。」の一言でその「存在を否定しようもないわからなさ」を表現していたが、これ、出産したお母さんって違う見方をするのじゃないだろうか? 自分の肉体の一部だったものが自我を得て他者になるんだものね。勿論生まれてからも暫くは一心同体同然だったりもするのだろうけど。貴族はすぐ乳母に引き渡すの?知らないけども。

なので、孤独の痛みを知り、他者に癒され他者を癒してきた宇多田ヒカルにとって、子を孕み産み育てたこの11年はまた異質であり、故に孤独の色合いも変わってきたのではないかなと想像する。私はオスなのでどの道こどもは産めない&産めなかったのだけれど、だからこそこの点に関してはフルスロットルで想像力をはたらかせたい。これを想像しないと、第二期宇多田ヒカルの何たるかはわからない。そういう意味では、世のお母さんたちが心底羨ましい。もし暇で暇で仕方なくて死んでしまいそうなら、私のこの羨ましさでも試しに想像してみて欲しいよ。どんな痛みを伴って、新しく世に人を1人(たまに2人、まれに3人etc. )解き放つものなのだろうな?


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「言語」というと、特に最近の学校教育を受けてる若い人たちからすれば例えば「プログラミング言語」のような“形式的に文字で表記される記号体系”みたいなものを思い出しがちだ。日本語や英語などの自然言語に対しても、言語性に注目する際にはその意味内容や文法などに着目し、「情報伝達の為の視覚的な記号」という受け取り方をしたりする。

しかし、ヒカルの場合はそこからして少し異なるのではなかろうか? 小さい頃からDTM(パソコンで音楽作業)に慣れ親しんでるとはいえ、プログラミング言語の話が出た事はないし(BASICとか RubyとかPythonとかね)、世代的にも余り学校で習ってないだろう。黒地に緑色のフォントのディスプレイ時代をリアルタイムで知ってるのは大したもんだが。

対談の途中、香港台湾公演でのMCに際してスマホのアプリで喋りの練習をした話が出ていた。あれなんかをみると、ヒカルは言語をまず「喋り言葉」として認識している気がする。まぁでもこっちが本来の意味なのよね。言語〜languageの語源てラテン語で「舌」を意味するlinguaだそうだし、言語は話し言葉で間違いない。

そうすると、イントネーションやアクセントも情報伝達に違いを生むとなれば、ヒカルのいう「言語」は、そもそもずっと、ハラリ氏がイメージするような情報伝達の記号体系としての「言語」とは乖離していたのかもしれない。もっといえばヒカルの「言語」はもっと「音楽的」なものなのだ。音声言語をまずイメージしているということである。

であるならば、ヒカルが常々言っている「音楽も言語」発言は、そもそも言語が原始的であれ断片的であれ、本質から音楽的要素を含んでいることがベースとなって出てきているのかもしれない。つまり

「音楽は“音声”言語の一部が発展したもの」

という捉え方をしているのかもしれないのだ。(…憶測ばかりだなぁ我ながら)


だとすると、言語と聞いてプログラミング言語などを想像する人たちのイメージからは相当遠い。プログラミング言語は画面の上の光の明滅でしかなく、なんならその概念自体が大事なので記号に何を当てるかとかにも頓着しない(極論、宣言すればいい。でも実地では慣習に従ってね⭐︎)。ましてや、その発音の仕方なんて全く気にしていない。でもxを頑なに“エキス”と発音して譲らない人居たなぁ(遠い目)。

他方ヒカルにとっては、言語は「音の連なり」なので、容易に音楽に接近する。何しろ時期によっては四六時中頭の片隅で作詞をしている人なのだ。そしてヒカルの場合作詞とは、99%が曲を先に作ってあるので、メロディという音声実体にどう当て嵌めるかを非常に重要視する。それを通して「言語」を日々体感しているのならば、言語と音が密接に関係している中で「音楽も言語」と思えてくるのは必然、なのかな?

もっとも、たとえそうだとしても浅はかだけどねぇ。よくある浅はかさなのでハラリ氏は自信を持って(おそらく、似た場面は過去に何度か経験してきてはるのだろう)切り返してきた。そこをヒカルが反省してくれるとすれば、今後ますます作詞に磨きがかかると言うか、その程度の認識でこれまでの作詞のクォリティを打ち出せていたのなら、今後まだまだ成長の余白がメチャメチャデカいということなので、その事実に気がついて私現在顔面蒼白であります。一体どんなことになるのやら。


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ヒカルさんがハラリ対談を蒸し返したので、あたしも少し補足しとくわね。先週と色々重複しそうだけど、敢えて。


ハラリさんが「音楽は嘘をつけるか?」と質問した件について、三度び確認しておくわ。彼は英語で、

“Can you lie in music ?”

と訊いている。ここだけ取り上げると確かに紛らわしいのよな。特に” in music”が。この疑問文においてこの前置詞inを「範囲」の意味で捉えれば、

「ヒカルさんは、音楽の中で嘘をつくことが出来ますか?」

という質問になり、ヒカルが実際答えた答え方は全く正しい。「私は音楽で嘘を見過ごすことはできない」という主旨の返答をしたからね。

しかし、実際のハラリ氏がこの時訊きたかったのはこうではなかったのだ。この前置詞inは「手段・方法」の意味なのだから。つまり彼は、

「ヒカルさんは、音楽を使って、嘘をつくことができますか?」

ということを訊きたかったのだ。というのも、その前段で「ヒカルさん、あなたは音楽が言語(のようなもの)だと仰る。ならばこういう質問をしたくなる…」という意味のことを言っているかるね。

そうね、例えば、

“Can you lie in English ?”

という質問。ここでの前置詞inは「手段・方法」の意味で使われている。即ち、

「あなたは、英語を使って、嘘をつくことが出来ますか?」

という文になる。ヒカルさんは音楽も言語だというのだから、同じようにハラリ氏は

““Can you lie in Music?”

つまり、

「あなたは、音楽を使って、嘘をつくことが出来ますか?」

と訊いたのだ。確かに、そうであればヒカルの返答は些か的外れだっただろう。しかしながら、先週指摘した通り、その返答はハラリ氏のその質問に答えるよりも彼をもっと満足させるものだったと推測するが。

なので、例えば「概念上の“音楽”という存在が主体となって“嘘をつきたい”という欲望を持つ」とか、「作曲者の心情として嘘の混じった音楽が許容できるかどうか」などのテーマをハラリ氏は主眼としたのではない。それぞれにそれ自体は興味深い質問だけどね。彼は非常にシンプルに、「音楽は言語なのか?」と問うたに過ぎない。ここは、難しく考えなくてもいいのよさ。

なら、難しく考えなくていい質問をなぜヒカルは正面から答えられなかったのか。考え直してみたところ、普段ヒカルは逆の方向から物事を捉えているのではないかと気がついた。それは、音楽の捉え方ではなく言語の捉え方について、だ。それに関してはまた稿を改めて。


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そして朝起きたらオジーが死んでいた。こちらは覚悟を決めてなかったので驚いた。7月5日にラスト・コンサートを完遂したとこだというのに。パーキンソン病だからもうそんなに長くないかもしれないとは思っていたけれどもさ。

なにしろヘヴィ・メタルの始祖BLACK SABBATHのオリジナル・シンガーだもんね。メタラーにとっては神様以上の存在で。
それに、サバスが有名になったのはオジーが脱退後にソロで成功したってのが大きかった。ビートルズとポール・マッカートニーとの関係性と同じですな。シンガーとしてもオジーはポールの影響を受けているし。そのオジーがポールより先に逝くとはねぇ。

メタルやプログレのオリジネーターたちは1970年代からミュージシャンやってるのでもう最近は毎週誰かしらの訃報に触れるのが当たり前になっているのだけどつい半月前に史上最も豪華なラインナップを揃えたメタルコンサートを成功させたミュージシャンがこうもあっさり逝くとは。総てをやりきって燃え尽きたということなのか。真っ白な灰どころの話じゃねーな。生き様だわね。

MTVの「オズボーンズ」がヒットしたので音楽ファンでなくても世界中の人から知られるようになって、その天然ボケっぷりを愛されるようになったオジー。インタビューなどでもサービス精神旺盛だったがフロントマンとしての嗅覚と哲学は確かなものだった。道化を演じ続けてるうちに生き方まで道化になったと言っていいのか何なのか。とぼけてんだか鋭いんだか。結局の所、オジーは愛されていた。それに尽きるな。


連日の訃報で参るけどその度にフレディ・マーキュリーの歌声で“The show must go on … !”と歌う一節が響いてきて、生きてる人間はいつも通りにその日を暮らすのみだわなと思い直す。来月以降の音楽雑誌、どんな内容になるのだろう。昨日の渋谷陽一、今日のオジー・オズボーン。私もしれっとしていたかったけれど、書かずにはいられなかった。次回からは通常運転に戻ります。それまでに他に誰も亡くなっていなければだけど! どうかフラグになりませんように!




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渋谷陽一氏が亡くなった。享年74。

ラジオで伊藤政則氏が渋谷さん病気療養ということで代役を務め始めた時、その口ぶりから私は「もう復帰は厳しそうだ。表立っては言わないが、恐らく脳の病気だろう。」という憶測を立てていた。伊藤氏はヘヴィリスナーにはそれとなく伝わる言い方をする人だからね。なので、今日の逝去の報に関しては事前に十分覚悟していたので驚きは無い。

いつ頃くらいから彼のラジオ番組を聴くようになってたかなぁ。25年前にはもう聴いていたかな。1997年からNHKFMで「ワールドロックナウ」が始まって、それをかなり初期から聴いていた。毎年の年末に大貫憲章・伊藤政則・渋谷陽一の鼎談2時間スペシャルで一年を振り返るのが楽しかったな。そういや今日の訃報はHALFORDの“Twenty Five Years”を聴きながら読んだのだったか。

彼が日本の商業音楽市場に与えた影響は途轍もなく大きい。例えば、宇多田ヒカルの存在よりも遥かに大きい。仮に万が一宇多田ヒカルがデビューしなかったとしても日本の音楽市場はそこまで大きな変化はなかっただろうが、渋谷陽一が居なかったら根底からまるで違うものになっていただろう。なんなら跡形もなく無くなっていたかもしれない。Twitterで「渋谷陽一」を検索してみよう。驚くほどの数の有名人・音楽家・音楽関係者が追悼のコメントをしている筈だ。こと音楽関係者に限れば、長嶋茂雄逝去の時よりもリアクションが大きい。当たり前か、直接お世話になった人が半世紀分在るんだもんね。

彼の業績についてはこれからも様々なところで目にするだろうから省略する。無意識日記にとっていちばん肝心だと思えるところだけ触れておこう。


音楽評論家渋谷陽一。彼が成し遂げた数々の偉業の中でも特に、

「ロック/ポップスを語る」

という人間の行動自体を規定してくれた点を挙げたい。音楽について語るなんて当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、これくらいの長さの文章で、このトーンで、この熱量で、この真剣度や思い入れ度で、大した知識がなくても、感じたことや考えたことを、どんな口調やどんな言い回しで語ればよいか、綴ればよいか、その方向性を示したのがこの人なのだ。その要となった音楽雑誌「ロッキング・オン」を創刊した人だからね。

もちろん彼以前にも、ロック/ポップスといった商業音楽に関してラジオや講演で語ったり音楽雑誌で記事を書いたりしていた人は居た。故・福田一郎氏とかね。しかし、あの「ロキノン風」とでもいうべき文芸路線を確立した功績は余りにも大きい。あれですよ、文系男子が小難しい顔をして大衆音楽を分析評論するあれですよ。

無意識日記も、傍から見たらその流れを汲んでるようにしか見えないよね。対象を限定してるだけで。でも実際は、私って「宇多田ヒカルの載ってないロッキンオンジャパン誌を一冊も買ったことがない」人なのでくよ。ずっとBURRN!とかだったんですよ骨の髄までメタラーなので。そんな人間であっても、ロックやポップスを語るとなると渋谷陽一の影響を間接的にでも受けてしまっていたのだ。結構恐ろしいことですよ。避けてても逃げてても避けようがない逃げようがないくらいに存在感のある人でしたから。語り口は静かなもんだったけどね。伊藤政則と和田誠のラジオを聴いて育った私からしたら何をボソボソノロノロ喋っとんねんという感じでしたねぇ。その喋りももう聴けないのか。


宇多田ヒカルとの縁でいえば、2009年の「トレビアン・ボヘミアン・スペシャル」でピーター・バラカン氏と鼎談を繰り広げたことなんかが有名だろう。それがなくても、音楽雑誌に登場する以上、渋谷陽一やその関係者に関わらない事は無理だった筈だ。やっぱり、日本商業音楽市場最も影響力の強い人だったかもしれない。伊藤政則はいつでも「日本で一番ギャラの高い音楽評論家!」って渋谷陽一のことを言ってたからね。冗談めかしてだけど。でも、そういうことだっただろうな。


渋谷氏の最高の金言は、この日記でも幾度となく引用させて貰ってきたこの一言だ。

「ポップ・ミュージックは、他者の音楽である。」

こんなに簡潔に真髄を表現できるものかね? 日本でのポップ・ミュージックを、洋楽邦楽問わず、最も深く広く理解してたんだなと痛感せずにいられない。そのわりに英語苦手だったらしいのが、なんかいちばん励まされたかな。長い間ありがとうね渋谷さん。


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昨日は未明からヒカルのNY滞在記とハラリ対談所感が投下されて賑々しい照實バースデーとなった。タイミングからすると「日本の参院選どうなったんだろう?」とiPhone開いたついでに投稿した、のかな? 『Mine or Yours』のおかげさまで党派性を若干背負い込んじゃったのでその責任感もあったかも。秋の国会をお楽しみに。

でまぁヒカルからの対談感想はこんなとこ。

『なんとユヴァル・ノア・ハラリさんと対談してしまいました😳とても刺激的な一時間でした。後から「あの時ああ言えばよかった!」と思うことが色々出てきて悔しいとこもあるけど、全然違う畑の二人で話ができて普段の彼のインタビューでは出ないような話もみんなに楽しんでもらえたらいいな。生まれて初めて人にサイン頼んじゃった。』
https://x.com/utadahikaru/status/1946974807347908743?s=46

「生まれて初めてサイン頼んだ」はインパクト強いよね。ヒカルがサインを欲しがりそうなフレディ・マーキュリーや尾崎豊はさっさと故人だし、スティングやビョークには未だに会った事がないか。そもそも昔はサインていう行為自体に懐疑的だった上長年「自分が仕事で書かされるもの」として定着してたのなら誰かに書いてもらう発想も浮かびにくかったのかもしれない。今回、親友から息子へと贈られた本の著者に会ったという事で、「この本にサインを貰えたら親友が喜ぶなぁ」と思って貰った可能性もあるが、そもそも「サイエンス全史」が世界的ベストセラーで地球規模での知名度はハラリ氏の方が圧倒的に上な為、別分野の偉人というのもあって心のつっかえがなかったのかも。とにかく、珍しいね。いや初めてなんだから珍しいに決まってるのだけど。

このあとインスタのストーリーに『(脳みそ)フル回転でこの後熱出た笑』と投稿していた。殆ど相手の土俵での対談をその道のエキスパートと繰り広げたのだからそりゃカロリー使うよねぇ。このレベルの他流試合をここまで成立させるってなかなかできないよ。学会発表だってほんの少し専門分野がズレればかなり初歩的な所から説明しなきゃいけないもんだしね(別にそれは悪い事じゃないが)。

ただ、対談慣れしてないというと大袈裟なんだけど、自分が主役として訊かれるインタビューばかりこなしてきた身なので、「自分の中の大きな流れに沿って自分の言葉で語る」ことを随分と求められてきた為、既に構築済みのレシピに従って説明する場面がやや多かったかなという印象はあった。釣りの比喩なんかがそうだよね。それ自体は別に悪い事ではないのだけど、返答に際してその場でレシピを即興で構築しなきゃいけない場面で一瞬反応が遅れてたのは、それによる慣性も一因かもしれないね。確かに、今や(ほぼデビュー時からだけど)ヒカルが音楽面で創造性を語る時、どんな大ベテランであっても傾聴側に回るだろうことを想像すると(井上陽水や桑田佳祐であってもあんな感じなんだもんね毎度言うけどさ)、こういう他流試合で思わぬ返し方を連発されて普段使い慣れてない脳の部分を刺激されたというのはヒカルにとってかなりプラスにはたらいたはず。

物凄く欲を言えば、たとえ定型文で百点満点の回答が出来るような場面であっても常に隙あらばアドリブを入れられないかと機を窺うような対話態度を身につけてくれたら、今後ますます他流試合の楽しみも、また本来の音楽媒体相手のインタビューへの興味も増していきそうだ。若い世代にはつやちゃんさんみたいなエグいアビリティを持つ人も居るので、宇多田ヒカルの威光に惑わされない世代との交流も見据えていくといいかもしれない。今回の悔しさを「あの時味わえてよかった」と回顧できる未来がどうかやってきますようにと祈らずにはいられません。


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嗚呼、「もう一度ハラリ対談を観直した時に確認しよう」とぼんやり思っていたヒカルさんの発言、Hironがスクショしてくれてるわ。

『私は 宇宙には音楽が満ちていて
 そこから芸術も生まれていると思うんです』
https://x.com/kukuchang/status/1945982561928487408?s=46
very special thanks to Hiron@Kukuchang

加えて、現・ZABADAK(どのライブでも欠かさず現メンバーとして紹介されていますので)の故・吉良知彦さんが「最期の日」に呟いたのがこちら。

「人間には空気が無いと音が聴こえないけど宇宙は音楽にあふれてる気がするんだ。音楽が宇宙の目的じゃないかとさえ思うこともあるよ」
2016/7/3 1:11
https://x.com/kiraguit/status/749274288662802432?s=46

『宇宙には音楽が満ちていて』
「宇宙は音楽に溢れてる」

確かに、これは同じ事を言ってる。

2人とも音楽家だから、そのように世界と宇宙を捉えているのだろう、と言うことはできる。しかし、二人の謙虚な性格を考えると、欲目抜きにシンプルな実感から出てきた言葉なのだと思う。

実際、音楽というアートは宇宙にとってとても自然だ。AMラジオの回路図を初めて見た時、そのシンプルさに吃驚した(実際に組む大変はまた別の話)。なるほど、電波と音波って殆ど同じなのね。横波と縦波の違いはあるけれど、波の形を音から電磁波に変えて運んで、また電磁波から音に戻すだけでいいんだなと。(光は電磁波の一種です)

蓄音機も同じ。揺れを針で溝を穿って記録して、今度は溝で針を揺らして音を出す。めっちゃシンプル。こんなことができるのも、「音」が宇宙の理(ことわり)をそのまま利用しているから。

音の物理学は、ほぼそのまま宇宙の物理学にも使える。同じ数学を使うってことね。人間、聴覚より視覚の方がより広範に重要なのだけど、視覚ってシンプルじゃない。テレビのブラウン管の仕組みを知った時、「力技やな!」とその「エレガントでなさ」にビックリ?ガッカリ?した覚えがある。絵画や写真や映画、アニメなど視覚を利用した芸術は沢山あるけれど、「人間が強引に作り出してる」感じが、音楽よりずっと強い。

音楽は音を基にしていて、音は宇宙の姿をそのまま素直に伝えるものだから、音楽が自然に宇宙から湧いて出てくるように感じるのは必然なのだと思う。調和と美、繰り返しと変化、高さと低さ、球形の広がり、何より時間の流れの感覚。そして最も大事なのは、人間から独立に「そこにずっと在る」と感じられるあの感触。

私としては視覚の芸術もそのうち音楽のように「宇宙から自然に取り出せる」ものに進化すると信じていて、まだ人類は道半ばなのだと思っているのだけど、もしそうなったとしても音楽の価値は変わらず、揺るぎない。今と同じ。そして、「歌」はそうやって目で見るアートが宇宙から溢れ出てくる時代になって尚、今よりも輝きを放つだろう。その可能性は、我々の知ってるものですら極一部。ヒカルがそれを、どれだけ宇宙を更に包み込む何かから呼び出してくれるか、今後も楽しみだ。嗚呼、呼び出すっていうか、宇多田ヒカルに恋焦がれてやってくる、ってのが適当だろうかな。やれやれ、そん頃まで生きててみたいわね。


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「AIと創造性」というテーマで語っているのなら、とふと思い出した一節があった。『何色でもない花』の

『自分を信じられなきゃ
 何も信じられない
 確かめようのない事実しか
 真実と呼ばない』

の段落だ。当初より、ここがどうにも「ゲーデルの不完全性定理」を現してるように思えてならなくてね。

不完全性定理というと、この名前のせいでWikipediaにもあるように数学の不完全さと限界を証明したネガティブな定理と誤解されがちなのだが、実際は「形式的論理・証明以外にも真偽を判定する方法がある」事を発見した、恐らく20世紀最大の成果のひとつだ。まだ数理科学で出てくる場面が殆どないので世間的には恩恵が被れる段階ではないのだけど、あたしが生きてる間くらいには何とかなってるかな?

細かい話は避けるが(難しいし何より細かいので)、ここでは

「何かが嘘ではない事を知ることと
“確かめる”事は、同じではない」

というところだけ踏まえておいてくれれば。「確かめられないという事実自体が真実を教えてくれる」、このロジックを、仮に不完全性定理を知らずにヒカルが見通してるとすれば、ここからの作詞術の進化の期待度は桁違いに跳ね上がる。大丈夫なのか本当に。

そういえば、『君に夢中』には

『嘘じゃないことなど
 一つでもあればそれで十分』

て歌詞も出てきたな。この景色もまた、凄く先進的というか、文化の進歩の先の先の景色を描いてるように私には思えたのだったわ。


でも、「音楽で嘘をつけるか」という問いに即答できなかったというアンバランスの問題は残る。「音楽で嘘をつこうとしてもそれがホントウになってしまう」という考え方をしたことがなかった、ってことだからな。或いは、そもそも音楽で嘘をつこうと思ったことがなかった? 歌詞でならある? だから『嘘が下手そうなやつあるある』? あれって自分のことだったの?

インタビューで嘘をついたことがあるとは言ってたが、その後に続いた「いつでも本気」というのは、本当の気持ちを、自らの心を裏切った事はないという意味だろうしなぁ。

そういや、「裏切られることが大事」って、ハラリ対談では英語でbetrayalって言ってたな。予想を上回るというより、本気で心情的に愕然とさせるってとこまでいってるってことか。それはいいんだけど。


量子コンピュータだAIだと言っていても、結局の所はコンピュータのすることでしかない。いわば全部嘘である。嘘の精度がどんどんあがって私含め世界中の人がどんどん騙されていくことになるだろうし、疑心暗鬼的に皆これが本当か嘘か確かめたくなる事が激増するだろうけれど、確かめられない事が真実を教えてくれる事もあると知れれば、貴方の好奇心はより元気になれるかもしれない。

なので、「本当の人工知能」を作る為にはコンピュータを超えていかないといかないんだけど、歌は超えた先の更に先でより鳴り響くのよね。歌手のすること、音楽家のする事はこれからますます増えるのよ。AIに手伝って貰えるようになっただなんて、まだまだ序の口の段階でしか、ないのだわ。


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なんだか脳みそを酷使する話が続いてるのでゆるめの話を…と思ったのに、最近でいちばんゆるい話題だった筈の「オノマトペロディへの参加」を結構重めに受け止めてる自分が居てさぁ困ったぞというとこなんです、今。やれやれ!

音楽の提供はいいとして、声の出演が謎よね、あの番組? 最初はすわ声優か演技が要求されるのかと色めき立ったけど、結局「オノマトペを読む」だけの役割で。隠れキャラだよね、要は。単純にyoshirottenが秒数の枠を貰ったからなんかやってみる?と提案したとか、そんなとこだろうとは思うのだけど。

別にEテレ限定ではなかったけど、「みんなのうた」以来のEテレ出演。もうちょい目立つのかなと思ってたんだけどね。総合テレビの方では科学系のNスペのナレーションまで務めて、CERNにまで訪問したんだからこのままEテレ街道まっしぐらかと期待してたんだけどな。まぁ今でもいちばん食いつきがいいのは「宇多田ヒカルの英語講座」なんだろうけど。ボイトレとか作詞術講座より遥かに人気が出そう…。

かといってテレビタレントになって欲しいわけでもなく。ラジオのレギュラーはやって欲しいけどね。『Kuma Power Hour』復活しねーかなー。もちろん、『トレビアン・ボヘミアン』が復活してくれても構わないのだけど、名前的にどうしても『Bohemian Summer 2000』と繋がってるイメージが強いからね。まぁその後も何度もスペシャル番組は作られてるのだけどもさ。

ああそうそう、ボヘサマといえば25年前の今日のメッセさ。

『仙台での最後の公演を終え、すぐさま東京に帰ってきたよ!もっとゆっくりしていけたらよかったなー。でも明日レコーディングあるし・・・ちっ。しかも自分から「17日スタジオ入る」って言い出した記憶がうっすらございます・・・文句言えねっす!』
https://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/utadahikaru/from-hikki/index_97.html

これって『Parody』のレコーディングのことだっけ? 記憶が曖昧で困ってます。あーもう、アルバム『Distance』も『First Love』みたいに周年記念盤出して各レコーディングディテールを網羅してくれ!ってそうね、来年25周年記念盤出せるな? いや待てそれは「ヒカルさんが活動休止期間なら」リリースするタイプのマテリアルだわよね。なら今の勢いだとやらないかなー。だってこのペースだと2027年3月にはニューアルバム出ちゃいそうだもんね。気が逸り過ぎだけどさ。

でも今んとこは、この半年で買ったものをまた堪能し返すだけでたっぷりあるもんなぁ。そういや『NINE STORIES』の話とか、全然してないもんな…だって次から次へと新しい話題がてんこ盛りなもので。2025年も幸せですねホント。焦らず弛まず怠らず、参りましょう。



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前回はいつにも増して飛ばし過ぎた。もう一度整理しておくと、

「音楽は嘘をつけるか?」

という問いに対しては、

「音楽の一部がどうしても現実そのものである為、嘘を吐こうとしてもそれをカタチにした途端に本当の事になってしまい、結果どうしても嘘を吐きたくても吐けないケースが出てくる。」

との返答が妥当なのだと思われる。加えて、

「オノマトペは噓をつけるか?」

という問いに関しては、

「言語の中でも音楽寄りの言葉なので、無理ではないが心情的にとても難しい。」

といったところか。

そして、ここらへんからやっと、「ヒカルさんが「はぐらかして答えたはずの返答」の意義が明らかになってくる。かなり直接的ではなかったが、それでもやはり繋がっているのだ。大きな意味で捉えられれば、結局のところ

「音楽の領域に嘘が介在するのは難しい」

ということには、なるだろうけれど。

もっと限定的な場面なら嘘もあるけどね。「キーンコーンカーンコーン♪」という学校のチャイムのメロディを録音しておいて、それを本来の時刻より5分早く鳴らす事で「あらもう授業終わりか?」とみんなを騙す事は出来る。これは音楽で噓をついたことになるにはなる。が、「そういう話じゃないよね」と興醒めする人が殆どだろうね。


なので、このたびEテレの「オノマトペロディ」にて「オノマトペ」をテーマにインストを作編曲した意義はデカい。既に述べたように、オノマトペは自然音声を人声に変換する「音→音/表音文字」の変換であるのに対し、ヒカルのインストは「映像→音楽」という「視覚→聴覚」の変換である、という違いはあるのだけれど。

少し前、Xで「トムとジェリー」のちょいキャラ(さかな?)がバズっていた。同作は戦前戦中戦後という時期に作ったくせにやたらハイクォリティなアニメーションなのだが、特に「映像と音楽をシンクロさせる」という点に関しては凄まじい執念を見せる。

その中で、「トムが高いところから低いところに落ちる」みたいな場面では、音楽の方は大抵「高音から低音に推移する降下メロディ」を用いてくる。しかし、なぜどんな場面でもそうするのか。重力による地球上の高低と音楽の音程の高低が、なぜ同じ「高い低い」なのか?

確かに、周波数でいえば、「高い音」は「大きな数の音」で、「低い音」は「小さな数の音」だ。CDのダイナミックレンジを20Hz〜20000Hzというときのヘルツである。しかし、これを波長でみたときには、「高い音」は「短い波長」で「低い音」は「長い波長」なので、「高い音」は「小さな数」で、「低い音」は「大きな数」で表現される。

周波数と波長は音速と結びつく事で全く対等な関係なのだが、なぜ我々は周波数の方に「気を取られる」のか。それをよく知らないと、「映像と音楽の(仮想的な)オノマトペ」がなぜ「トムとジェリー」や「オノマトペロディ」のようなものになるのか、直感的にはわかっても、論理的には説明できない。

今後、「オノマトペロディ」の続編が作られるとしたら、また新しい映像にヒカルは新しい音楽をつけるだろう。それはオノマトペ的なアプローチで作られるだろうから、それを通じてヒカルは音楽のもつ、上記でいうところの「噓を吐こうにも頑張るとホントウになっちゃうので無理。」な性質と真正面から向き合うことになる。そうなってもなお「音楽も言語」と言い張るなら…どうしようかな?(笑) ああでも、それをフォローすることも大切か。またそれについても書けたらいいかな。


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