トシの読書日記

読書備忘録

5月のまとめ

2013-05-31 11:54:35 | Weblog
今月読んだ本は以下の通り


車谷長吉「車谷長吉の人生相談――人生の救い」
村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
多和田葉子「文字移植」
大江健三郎「憂い顔の童子」
川上弘美「なめらかで熱くて甘苦しくて」
中島義道「ニーチェ――ニヒリズムを生きる」
大江健三郎「さようなら、私の本よ!」



以上の7冊でありました。今月も非常に充実した読書ができました。大江作品、残すところあと2冊であります。また、村上春樹の新刊を久々に読むことができてうれしかったっす。川上弘美の復活もいいニュースでしたし、中島先生も相変わらずで満足でありました。




5月 買った本0冊
   借りた本7冊

不安と狂気に対する老人の恐怖

2013-05-31 11:20:42 | あ行の作家
大江健三郎「さようなら、私の本よ!」読了



大江健三郎、「後期の仕事(レイター・ワーク)」三部作の完結編であります。これまでの二作とは、また作品の雰囲気がかなり違って、ちょっと大江らしくないというか、スリリングな仕掛けが随所に見られました。



「四国の森」の「デモごっご」で頭に大怪我を負った長江古義人は、奇跡的に生き返り、北軽井沢の山荘で静養するのですが、そこに現れたのが国際的な建築家である椿繁。彼は四国の少年時、古義人と幼なじみなのでありました。


そのシゲとコギーが北軽で過ごすうち、シゲは、あるとんでもない計画を持ち出します。それが爆破テロなんです。最初、東京のビルを破壊する計画をするのですが、断念して、なんと古義人の別荘を爆破させることになります。しかし、シゲのブレーンである武とタケチャンが爆破後、それは事故だったと警察に説明せよとの指示に反発し、予定より早くそれを実行して犯行声明を出します。そしてその時、タケチャンは鉄パイプに頭を貫かれて死んでしまいます。その後、古義人は「四国の森」に隠遁してしまいます。


大ざっぱなストーリーはこんなところなんですが、作中の登場人物がそれぞれの強い信念、アイデンティティを持ち、古義人と関わっていくところが非常に面白かった。ウラジミール、清清、ネイオ、武、タケチャンと個性豊かな面々です。特にウラジミールが三島由紀夫が自決したことに関して、それで気持ちがくすぶっている自衛隊のメンバーを蜂起させ、テロを企てるという、荒唐無稽な計画を持っていることに驚きました。


大江健三郎と三島由紀夫は、いわば水と油なわけですから、著者である大江は、そこらへんを充分意識して書いたんだろうと思います。それを考えるとそのあたり、さらに面白いです。


読み物としては充分面白い小説ではありましたが、テーマはやはり「核廃絶」ということでしょうか。古義人が生きているうちに世界から「核」はなくならないことは確実なわけですから
、今、古義人は日本はもちろん、世界中の新聞から世界が悪い方向に進みそうな「徴候」の記事を読み、それを文章にして次の世代の若者に渡すことが彼の仕事になっているわけです。そこで最後のシーン、シゲは君が大きい音を聞かないうちに(死んでしまわないうちに)それを早くやるべきだと励ますわけです。


しめくくりのT・Sエリオットの詩句が胸に響きます。



老人は探検者になるべきだ
 現世の場所は問題ではない
 われわれは静かに静かに動き始めなければならない 

世界と一致したまま無に至る

2013-05-31 10:37:17 | な行の作家
中島義道「ニーチェ――ニヒリズムを生きる」読了



今、巷で話題のニーチェであります。商売上手の中島先生としては、もちろん書かないわけがなく、しかもすべてのニーチェ研究本に鉄槌を下す!と息まいており、本書こそがニーチェの本質を突いていると豪語しております。


とまぁ読んでみたんですが、まず巻頭の言葉に驚かされます。

〈ニーチェの言説は、ほとんどの者にはまったく役に立たない。いや、誤解しない限り、ただただ有害である。〉


しかし、読み進めていくと、この中島氏の警告(?)にもうなずかされるところもあります。まず、自分はヨーロッパ人でもないし、キリスト教の信者でもないこと。なので、ニーチェの言説に理解を示す資格がないということです。いずれにせよ、「ツァラトゥストラ」はめちゃくちゃ難しいし、中島氏の解説もそうとう手強いので、なかなか頭に入っていきませんでした。読了してしばし茫然とし、翌日また最初から読み直しました。


ニーチェの「ツァラトゥストラ」で語っていることは「永遠回帰」であります。これがなかなか難しい。「永遠回帰」とは何か?ニーチェの著書「力への意志」から引用します。


〈無限の時間のうちでは、あらゆる可能な結合関係がいつかは一度達成されていたはずである。それのみではない。それらは無限回達成されていたはずである。しかも、あらゆる結合関係とその直後の回帰とのあいだには、総じてなお可能なその他すべての結合関係が経過したに違いなく、これらの結合関係のいずれもが、同一系列のうちで生ずる諸結合関係の全継起を条件づけているのであるから、このことで絶対的に同一な諸系列の円環運動が証明されているはずである。すなわち、それは、すでに無限にしばしば反復された、また、無限にその戯れを戯れる円環運動としての世界にほかならない。〉


なんとなくわかるんですが、なんだかね…。


解説を進めていく中島氏も最後の方では疑問を呈しています。引用します。


〈たしかに、先に分析した六つの前提を呑み込む限り、一度何ごとかを全的に肯定すれば、それを無限回肯定することになるだろう。全宇宙を肯定することになるであろう。しかし、それが救いになるのだろうか?一度喜びにうち震えれば、それがありとあらゆる虚しさを消去できるのか?「神の死」を真正面から見据えるとき、いかに喜びにあふれた時が続こうと、一度何ごとかを(例えば自分の死を)「ナイン(否)!」と全身で否定すれば、やはり世界を否定することになるのではないか?最後の疑いが頭をもたげてくる。(中略)この瞬間に向かって「おまえは私の気に入る。幸福よ!刹那よ!瞬間よ!」と叫ぶことは、ただそれだけのことではないのか?このことがどうして「いっさいが帰ってくることを欲したことになる」のであろうか?そう信じ込もうとすることは、キリスト教(パウロ主義)が、あるいはライプニッツのオプティミズムが、いかに悲惨なことが起きようと、すべては神の意志なのだからすべてを肯定しようとする態度に劣らない自己欺瞞ではないのか?〉



ニーチェの「ツァラトゥストラ」がどんなものであるか、おぼろげにわかっただけでも、よしとしますか。どうあがいても自分はニーチェを理解する資格がないんですから…。