たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

優しさは恥ずかしくない

2017-02-25 03:09:21 | Weblog
 正直者が損する社会では、まともな人は孤立せざるを得ない。
 騙し合いが通常になったときに、そんなことを嫌う精神の持ち主は、その場を離れるしか術がないからだ。

 他人を陥れることが広く平均的な振る舞いで、他人に手を差し伸べることがレアケースで目立ってしまうのであれば、それは完全に無秩序な社会よりも、優しさを発現させにくいことになる。果たしてそんな社会を継続させていく価値があるのか?技術が進捗して生活が便利になっても、精神的な退化を無視するわけにはいかない。
 ちなみに、無能な連中が自分たちの無能力を正当化するためだけに、このロジックを悪用して、その価値もわからないままにイノベーションを規制し、履歴や誰かに寄生することでしか利潤を得られないようにしようとすることは、最悪だ。それでは、技術も進捗しなければ、精神的な豊かさも進捗しない。どちらも退化させてしまうことで、ただ昔からつけられている何かの名前が残ることを目指すのでは無意味であろう。これが進むから排外主義が流行るのである。

 一昔前には、「儲かった」と言えば下劣だと叫ぶ声があったにも拘らず、今は平然と「儲かった」とドヤ顔で言う人が多くなった。
 とにかくズルして儲けたり、そのためならどんな卑劣な手段も厭わないです、と言うことに何の抵抗も感じない若者が、新進気鋭だと言われる腐った時代に、「弱者を蔑むことで自分が成り上がったり、それを保身に用いたりすることは当然」という考えに反抗するだけのまともさを保持するためには、様々なものを犠牲にする必要がある。
 それは、マジョリティでいられる安心感かもしれないし、何かの言葉を確実に得られる期待かもしれない。圧倒的多数であるクズから誹られ、手を叩かれながら笑われることは、確かに辛いかもしれない。というか、予想以上に、辛いだろうと思う。

 だが、、そこでちょっとでも、何かのズルをしようとしたり、誰かを傷つけることで自分が成り上がろうと画策してしまったら、もっともっと辛い。

 疲弊し切った社会では、自分から沸き上がる優しさは恥ずかしいことに感じてしまいがちだ。傷つけるほうがあらゆる面でラクに感じるだろう。
 でも、本当に恥ずかしいのは、他人よりもラクして儲けようとする態度や、とにかく上の人の言うことをきくことで何かを成り立たせようとするやる気の無さや、他人を蹴落としてまで自分が成り上がろうとする醜い心である。

 まともな人が生きにくい社会のなかでも、一縷の望みはある。
 絶滅危惧種であっても、世界中でたった一人しかいなかったとしても、きちんと見渡せば、まともさを見出せる人が確実にいるということである。その事実こそが、やる気を創発し、心を豊かにし、能力的にも精神的にも確実に進捗させていこうと思える。

 だから、その「まともさ」に、ぜひ自信を持って欲しいと、俺は小さく願っている。
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