ホンモノを感じ続けるためにはどうしていけばイイのか?
大きく2つ選択肢が思いつく。
まずは、堅いモノを信じ続けることだ。少なくとも即物的には不足なく幸せでいられるだろうから、具現化することをきちんと感じとっていければ、ホンモノかも。
即物的なこととホンモノに、相関はある。だけど、ホンモノは、即物的な事の数値に対して、数も量も関係なく、連続的なモノではなく、強さで閾値を持っているような感じなのだ。
ここさえ、間違えなければ、、って、たぶん無理だね。そんなんじゃ、どんなに権威を持っても、どんなにスゴイ言葉を手にしても、どこまで行っても満足できないから。っていうか、信じていた堅いモノが、実は最低だったら、どうすんの?
じゃあ、逆に、色んなモノに手をだして、多様的になってみたらどうか?少なくとも、即物的なことを得られないというリスクは減る。
単純に、沢山のモノに手をだして、気が多いように振る舞っていれば、自分で選ばなくて済むようになる。手っ取り早いモノから順番に手にしていけば、即物的なモノや言葉を得られないという危険性からは逃げることができる。
だから、ちょっとは自分で選ぶようにしてみれば、、って、たぶん無理だよね。行動と感情はmodulateするから、行動すればするほど、その系へ感情が乗ってきちゃう。すると、自分の身体が自分のモノじゃなくなっていって、自分のことがどこか他人事みたいになってきちゃって。
《自分ではそういうこと得意だって思ってたんだけど、なんか最近は疲れちゃって。》
『色んな事いっぺんにし過ぎなんだよ。ちょっとは選ばないと、そりゃ疲れちゃうんじゃない?』
《でも、もともと私、気疲れで疲れないんだよね。》
気疲れで疲れない、って矛盾した言葉を聞いてから(笑)、その言葉だけを抽出して、俺なりに努力してみたつもりだけど、やっぱり難しいな、って最近になって思う。
[違う、むしろ習慣なんだよ。むしろ、K君にとっては、堅かったんだ。]
『あー、なるほどねー。っで、そっち側を捨てて、もっと堅いモノを手にしようとして、今、手に入っちゃった。』
[いいじゃん。世間一般からしたら、大正解だよ。]
『いや、でも、そっちを選んでみたいじゃん。』
きっと、即物的にもこれで正解だから、自分の行動が飲み込めなかったんだ。嘘っぽくて、薄っぺらいみたいで。
系を支配するオーダーパラメータとして、唯一相応しいのは、いつだって、情熱だ。
どんな手法であったとしても、きっと必ず、ホンモノを手にすることが出来るし、笑っていられる。だけど、情熱が欠けていたなら、どんなことをどんな高級そうにしたって、楽しいわけがない。それが、讃えられても、他人から羨ましがられても、ルール上最高峰であったとしても、自分自身に情熱が無いのだったら、意味がない。
世間では、表面的なことばかりが称賛されてしまうから、情熱があることを、むしろ恐れてしまう。それによって、空回りしたり、変に思われたり、惨めな感じになっても、誰かに多大なる迷惑をかけない限りは、情熱があるほうがずっとイイのに。
情熱が不足していることを矮小化してしまうことが素晴らしいとは、到底、思えない。矮小化できちゃうなら、そっちのが、惨めじゃね?
『っで、何喋ったっけー、ってきちんと思い出して、それをちょっと出すんですよ。一人一人に。』
「うわーぁ、想像しただけで、疲れそう。私には無理だな。」
『そりゃ、気疲れしますよ。でも、すればするほど度合いは減っていくし、それはそれで努力だって言えません?』
こういうことに、ちょっと疲れるくらいのほーが、実は情熱があって、イイ感じなのかも。
もともと、堅いことを信じる性質だけど、今は、多様性サイドも取り入れて、頑張っています。
手法間の優位性に騙されず、情熱のみに依存して。
大きく2つ選択肢が思いつく。
まずは、堅いモノを信じ続けることだ。少なくとも即物的には不足なく幸せでいられるだろうから、具現化することをきちんと感じとっていければ、ホンモノかも。
即物的なこととホンモノに、相関はある。だけど、ホンモノは、即物的な事の数値に対して、数も量も関係なく、連続的なモノではなく、強さで閾値を持っているような感じなのだ。
ここさえ、間違えなければ、、って、たぶん無理だね。そんなんじゃ、どんなに権威を持っても、どんなにスゴイ言葉を手にしても、どこまで行っても満足できないから。っていうか、信じていた堅いモノが、実は最低だったら、どうすんの?
じゃあ、逆に、色んなモノに手をだして、多様的になってみたらどうか?少なくとも、即物的なことを得られないというリスクは減る。
単純に、沢山のモノに手をだして、気が多いように振る舞っていれば、自分で選ばなくて済むようになる。手っ取り早いモノから順番に手にしていけば、即物的なモノや言葉を得られないという危険性からは逃げることができる。
だから、ちょっとは自分で選ぶようにしてみれば、、って、たぶん無理だよね。行動と感情はmodulateするから、行動すればするほど、その系へ感情が乗ってきちゃう。すると、自分の身体が自分のモノじゃなくなっていって、自分のことがどこか他人事みたいになってきちゃって。
《自分ではそういうこと得意だって思ってたんだけど、なんか最近は疲れちゃって。》
『色んな事いっぺんにし過ぎなんだよ。ちょっとは選ばないと、そりゃ疲れちゃうんじゃない?』
《でも、もともと私、気疲れで疲れないんだよね。》
気疲れで疲れない、って矛盾した言葉を聞いてから(笑)、その言葉だけを抽出して、俺なりに努力してみたつもりだけど、やっぱり難しいな、って最近になって思う。
[違う、むしろ習慣なんだよ。むしろ、K君にとっては、堅かったんだ。]
『あー、なるほどねー。っで、そっち側を捨てて、もっと堅いモノを手にしようとして、今、手に入っちゃった。』
[いいじゃん。世間一般からしたら、大正解だよ。]
『いや、でも、そっちを選んでみたいじゃん。』
きっと、即物的にもこれで正解だから、自分の行動が飲み込めなかったんだ。嘘っぽくて、薄っぺらいみたいで。
系を支配するオーダーパラメータとして、唯一相応しいのは、いつだって、情熱だ。
どんな手法であったとしても、きっと必ず、ホンモノを手にすることが出来るし、笑っていられる。だけど、情熱が欠けていたなら、どんなことをどんな高級そうにしたって、楽しいわけがない。それが、讃えられても、他人から羨ましがられても、ルール上最高峰であったとしても、自分自身に情熱が無いのだったら、意味がない。
世間では、表面的なことばかりが称賛されてしまうから、情熱があることを、むしろ恐れてしまう。それによって、空回りしたり、変に思われたり、惨めな感じになっても、誰かに多大なる迷惑をかけない限りは、情熱があるほうがずっとイイのに。
情熱が不足していることを矮小化してしまうことが素晴らしいとは、到底、思えない。矮小化できちゃうなら、そっちのが、惨めじゃね?
『っで、何喋ったっけー、ってきちんと思い出して、それをちょっと出すんですよ。一人一人に。』
「うわーぁ、想像しただけで、疲れそう。私には無理だな。」
『そりゃ、気疲れしますよ。でも、すればするほど度合いは減っていくし、それはそれで努力だって言えません?』
こういうことに、ちょっと疲れるくらいのほーが、実は情熱があって、イイ感じなのかも。
もともと、堅いことを信じる性質だけど、今は、多様性サイドも取り入れて、頑張っています。
手法間の優位性に騙されず、情熱のみに依存して。