最近、堅いか柔らかいかで、優先順位を決めがちな自分の性質が本格的に問題だな、って思ってきた。
この世には、自分にとって、絶対に裏切らないであろう、堅いことは、いくつかある。知識だとか、家族だとか、ルールや制度だとか、そういうモノは、ほぼ絶対に俺を裏切らない。
例えば、学問の3つの領域(人文科学、社会科学、自然科学)の中で、一番裏切らないのは、「自然科学」だ。だからこそ選択した。どんなに先生が強く主張してきても、解答は自然現象の中に存在していて、正しいか正しくないかは、権威には依存しない。これほど堅い特徴は他の学問領域には無い。
その「自然科学」の中でも、特に裏切らないのは、学部の時に専攻していた「物理学」だと思う。数学についで2位かな(俺は数学を「自然科学」に含めるという立場に立ちます)。
他に例を挙げるとしたなら、、俺は、ある程度きちんと信頼関係を築けている40人くらいを除けば、たいていの友達よりも、嫌いなヤツでも「先生」と呼ばれている人を信用する。先生と呼ばれてる人は、それだけで、ある部分に関しては、決して裏切らないからだ。
裏切らないのではなく、正確に言えば、仕事上、裏切れない、と言うほうが正解かな。もちろん、系を使い分けるけどさ。
どんなことであっても、努力が報われないということが、一番ツライ。だから、一般に、流動性があったり、時間変化してしまうと言われてるモノに、精一杯の情熱を注ぐことを具現化することには勇気がいるし、俺にとっては、難しいのだ。
でも、そんな自分が悲しいなって思うし、虚しさを感じることだってある。
だって、『期待したい!』って感情と『期待できません』って思考は、本来、介在しないはずなのに。
そして、一般に、柔らかい、と言われ、期待できないかもしれない系に、『期待してる!』って感情を持って、きちんと出来ることをし続けることこそ、本当に楽しいんだと思うし。たとえ、最終的に、結果は出なくても。
だから、柔らかいことに対しても、「期待したい」んだったら、堅いことと同じ時間配分で、ちゃんと努力しなきゃだよね。
期待しづらくても、結果が見えにくくても、流動的だとしても、これからはそっち側も頑張ってみたいなって思う。
受け入れがたい現実過ぎて、吐くくらいに泣くことになるんだとしても、たったそれくらいのリスクなんだし。
この世には、自分にとって、絶対に裏切らないであろう、堅いことは、いくつかある。知識だとか、家族だとか、ルールや制度だとか、そういうモノは、ほぼ絶対に俺を裏切らない。
例えば、学問の3つの領域(人文科学、社会科学、自然科学)の中で、一番裏切らないのは、「自然科学」だ。だからこそ選択した。どんなに先生が強く主張してきても、解答は自然現象の中に存在していて、正しいか正しくないかは、権威には依存しない。これほど堅い特徴は他の学問領域には無い。
その「自然科学」の中でも、特に裏切らないのは、学部の時に専攻していた「物理学」だと思う。数学についで2位かな(俺は数学を「自然科学」に含めるという立場に立ちます)。
他に例を挙げるとしたなら、、俺は、ある程度きちんと信頼関係を築けている40人くらいを除けば、たいていの友達よりも、嫌いなヤツでも「先生」と呼ばれている人を信用する。先生と呼ばれてる人は、それだけで、ある部分に関しては、決して裏切らないからだ。
裏切らないのではなく、正確に言えば、仕事上、裏切れない、と言うほうが正解かな。もちろん、系を使い分けるけどさ。
どんなことであっても、努力が報われないということが、一番ツライ。だから、一般に、流動性があったり、時間変化してしまうと言われてるモノに、精一杯の情熱を注ぐことを具現化することには勇気がいるし、俺にとっては、難しいのだ。
でも、そんな自分が悲しいなって思うし、虚しさを感じることだってある。
だって、『期待したい!』って感情と『期待できません』って思考は、本来、介在しないはずなのに。
そして、一般に、柔らかい、と言われ、期待できないかもしれない系に、『期待してる!』って感情を持って、きちんと出来ることをし続けることこそ、本当に楽しいんだと思うし。たとえ、最終的に、結果は出なくても。
だから、柔らかいことに対しても、「期待したい」んだったら、堅いことと同じ時間配分で、ちゃんと努力しなきゃだよね。
期待しづらくても、結果が見えにくくても、流動的だとしても、これからはそっち側も頑張ってみたいなって思う。
受け入れがたい現実過ぎて、吐くくらいに泣くことになるんだとしても、たったそれくらいのリスクなんだし。