スピノザの教えというものを単に受動的に守るというだけでは,スピノザ主義者として生きるということにはなりません。では,スピノザ主義者として生きるということがどういうことなのかといえば,これはこれで難しいです。これについてドゥルーズは,スピノザの哲学を専門的に研究している人のみがスピノザ主義者であるのではなく,哲学的知識などはそうももっていなくても,スピノザ主義者であるという人もいるという意味のことをいっています。
僕にとってこのことばがリアルに思えるのは,確かに僕もある人に対して,その人がスピノザの哲学について何らかの知識があるのかないのかを知らなくても,たとえ部分的にではあったとしても,スピノザ主義者的な要素を感じるということがあるからです。
僕がそう感じるタイプの人というのはパターンがあって,おおよそ次のふたつのどちらかであるといえそうです。まずは,自分自身の喜びが行動に直結しているタイプ。逆にいえば,自分自身の行動の第一基準に,自分の喜びをおくタイプの人です。もうひとつが,受動感情としての金銭欲や名誉欲というのが希薄であるタイプの人。
厳密にいうとこのふたつは矛盾したことをいっているようにも思えるのですが,どちらのタイプにも,僕はスピノザ主義の匂いを感じでしまうのです。
第一部公理三のふたつの意味のうち,強い意味の方が成立するためには,その背後に,各々の必然性を統一する何かが前提されている必要があり,かつ条件としてその何かもまた必然的に存在しなければならないということにここでのテーマは立脚しています。そしてこれについて『エチカ』に訴えてここまで考えてみると,それはどうやら神のようです。
ただ,僕は第一部定義六は実在的な意味であると考えていますが,ここでは,神というからにはそれは最高に完全でなければならないという特質からこの定義の正当性を導いたので,これだと,最高に完全であるべき神が存在するならば,それは絶対に無限でなければならないという意味で,名目的であると考えることが可能であるように思います。
したがって,第一部公理三を成立させるために神を背後に前提することの正当性を考える前に,名目的に定義されていると考えられる神について,それが実在するということを証明しておく必要があるようです。
僕にとってこのことばがリアルに思えるのは,確かに僕もある人に対して,その人がスピノザの哲学について何らかの知識があるのかないのかを知らなくても,たとえ部分的にではあったとしても,スピノザ主義者的な要素を感じるということがあるからです。
僕がそう感じるタイプの人というのはパターンがあって,おおよそ次のふたつのどちらかであるといえそうです。まずは,自分自身の喜びが行動に直結しているタイプ。逆にいえば,自分自身の行動の第一基準に,自分の喜びをおくタイプの人です。もうひとつが,受動感情としての金銭欲や名誉欲というのが希薄であるタイプの人。
厳密にいうとこのふたつは矛盾したことをいっているようにも思えるのですが,どちらのタイプにも,僕はスピノザ主義の匂いを感じでしまうのです。
第一部公理三のふたつの意味のうち,強い意味の方が成立するためには,その背後に,各々の必然性を統一する何かが前提されている必要があり,かつ条件としてその何かもまた必然的に存在しなければならないということにここでのテーマは立脚しています。そしてこれについて『エチカ』に訴えてここまで考えてみると,それはどうやら神のようです。
ただ,僕は第一部定義六は実在的な意味であると考えていますが,ここでは,神というからにはそれは最高に完全でなければならないという特質からこの定義の正当性を導いたので,これだと,最高に完全であるべき神が存在するならば,それは絶対に無限でなければならないという意味で,名目的であると考えることが可能であるように思います。
したがって,第一部公理三を成立させるために神を背後に前提することの正当性を考える前に,名目的に定義されていると考えられる神について,それが実在するということを証明しておく必要があるようです。