スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

キャットクイルとパシフィカス&決定の要素

2013-05-27 18:55:53 | 血統
 昨日の日本ダービーを素晴らしい末脚で差し切ったキズナ。この馬の母は1990年に産まれたキャットクイル。Catequilはインカ帝国の神の名前のようです。ファミリーナンバー13-a
                         
 1994年に輸入され,繁殖生活は日本のみ。初年度産駒が1998年の桜花賞と秋華賞を勝ち,JRA賞最優秀3歳牝馬,2000年にはトゥザヴィクトリーなどを降してエリザベス女王杯に優勝,JRA賞の最優秀4歳以上牝馬に選出されたファレノプシス。いきなり大物を出したことになります。
 1999年に産まれた産駒は日本では出走せず,アメリカの調教師に預けられました。このブログでいう馬の国籍ではアメリカ馬となったわけです。Sunday Breakと名付けられたこの馬は,GⅠには手が届かなかったものの,後の2008年,馬の国籍では今度は日本馬となるカジノドライヴが勝つことになるピーターパンステークスGⅡを2002年に勝っています。
 キズナはファレノプシスからみて15歳下の半弟。まだ活力を維持していたわけで,キャットクイルは素晴らしい繁殖牝馬だといえるでしょう。
 キャットクイルが輸入された背景には,9歳上の半姉,パシフィカスが日本で繁殖生活を送っていた点が挙げられます。Pacificusはするめいかという意味もあるようですが,人名だと思います。
 こちらはイギリスで繁殖生活を送ってから1989年に輸入。そのときにシャルードの仔を宿していて,1990年産の日本での初年度産駒は1993年に菊花賞を勝ってJRA賞年度代表馬,翌1994年には天皇賞(春)とベガも出走した宝塚記念に優勝,JRA賞最優秀4歳以上牡馬に選出されたビワハヤヒデ
                         
 翌年の産駒は1993年に朝日杯3歳ステークスに勝ちJRA賞最優秀2歳牡馬,1994年は皐月賞,日本ダービー,菊花賞の三冠と,有馬記念を優勝,JRA賞年度代表馬に選出,引退後の1997年に殿堂入りを果たしたナリタブライアン
 さらにナリタブライアンの全弟で1995年に産まれたビワタケヒデは,1998年にラジオたんぱ賞を勝ちました。
 キズナからみるとパシフィカスの3頭の仔は,従兄になるわけです。
 久々の重賞勝ち,大レース勝ち馬ですが,近親も多く輸入され,日本での枝葉は広がりつつあるところ。一族でみれば,さらに大レースの勝ち馬が輩出してもおかしくないと思います。

 神Deusが物を作用に決定するdeterminareという命題と,物が神によって作用に決定されるという命題が,同じような意味において真の命題であると仮定して,重要になってくるのは,ここで決定といわれていることを構成する要素がどのようなものであるのかということです。いい換えれば,神が物を作用に決定するという命題,および物は神によって作用に決定されるという命題は,『エチカ』においてはどのような意味をもっているのかということです。
 再三にわたっていっているように,『エチカ』の神は意志voluntasによって働いたり作用したりするような実体substantiaではありません。したがって当然のことながら,この決定も神の意志による決定ではないということになります。いい換えれば,神の意志はこれらの命題の決定の要素を構成したりはしません。
 もしも神が意志によって働くagereものであるとしてみましょう。この場合,神が物を作用に決定するということの意味は,神がその意志によってある物に何らかの作用をさせ,またある物には何の作用もしないように決定するということになります。一方,物はこの決定からは逃れられないということはすでに明らかになっていますから,要するにすべての物は神の意志に随意して,ある作用をなしたりなさなかったりするでしょう。この場合,確かに神は自由に物に対して決定をなし,物は神によってすべての作用を強制されると考え得ると僕は思います。しかし神は意志によって決定を下すわけではありませんから,このような仮定は無意味といえば無意味でしょう。しかし,もしもこのように考えなければ,強制ということを規定することができないのであるなら,ただ単に,これは仮定にすぎない,そして真理veritasではないというだけで,ふたつの命題が物に関する強制を含意していないということにはなります。
 では実際に決定を構成する要素は何であるのかといえば,それは神の本性naturaの必然性necessitasなのです。つまり神はその本性の必然性によって物を作用に決定します。逆にいえば,もしも神が物をある作用に決定しないとすれば,それはその物がその作用をなすことが,神の本性の法則に反しているからだと理解しなければなりません。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東京優駿&補足 | トップ | 宇都宮ワンダーランドカップ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

血統」カテゴリの最新記事