スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

宇都宮ワンダーランドカップ&決定の内実

2013-05-28 18:52:47 | 競輪
 全プロがあったために少し間のあいた記念競輪。宇都宮記念は今日が決勝でした。変則的な並びとなり,神山拓弥ー幸田の栃木,武田-神山雄一郎の茨城栃木に藤田,田中ー和泉田の千葉で,浅井と松岡は単騎。
 スタートは田中が取ってそのまま前受け。最初は武田が3番手にいましたが,上昇した浅井を入れて武田は4番手に。7番手に神山拓弥,最後尾に松岡という周回に。残り2周のバックに入ってから神山拓弥が上昇し,田中を叩いたところで打鐘。松岡が続かなかったので,武田が切り替えるように田中と3番手並走。そのままホームから踏み込んでいき,武田の先行に。最初に捲っていったのは田中。さらに外を松岡。松岡の勢いがよく,出るところまでいったのですが,単騎ですから神山雄一郎がスイッチ。バック9番手になった浅井も大外を捲り追い込み,これが届いての優勝。松岡は差した神山雄一郎が2車身差の2着。力尽きた感じの松岡は4分の3車身差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は昨年11月の松阪記念以来となる記念競輪7勝目。宇都宮記念は初優勝。バックで最後尾ですから位置取りとしては最悪に近いものでした。ただ,捲り合戦のようなレースとなったため,かえって脚を残す結果となり,むしろ幸いしたともいえそう。やや調子を落としているのかなという感じがあったのですが,やはり力があります。記念競輪に出走すれば優勝候補でしょうし,またビッグも獲得できるのではないでしょうか。

 このように考察してきますと,第一部定理二六第一部定理二七で決定determinatioということばが用いられるとき,それは僕たちが普通に決定ということばの意味としてイメージする内容と,だいぶかけ離れているものであるということが理解できます。個物res singularisの作用に限らず,スピノザが神Deusの決定というとき,そこに含意されている内容は,端的にいってしまえば,神の本性naturaの必然性necessitasに合致する事柄はどんなことでも生じ,逆に神の本性の必然性に反する事柄は絶対に生じることがないということなのです。
 僕たちは普通はそうは考えません。僕たちは困難であると思えるようなことはそれだけ生じにくく,逆に容易であると感じられるようなことはそれだけ生じやすいと認識するcognoscereのが普通でしょう。しかしスピノザの哲学においてはこれが妥当しません。そもそも困難さとか容易さというのは,事物の本性に属するわけではありませんし,事物の本性から帰結する特質proprietasですらないと考えるべきなのです。それらは存在するというならば,思惟の様態cogitandi modiとしてのみ存在し得るというべきです。ですからどう高く見積もったところで,困難さも容易さも理性の有entia rationis以上のものではあり得ないと僕は思います。いい換えればそれらは,実在的有ではないのです。
 ではこのような意味における神の決定というものと,関連する要素を『エチカ』の中から見出そうとするなら,それは,必然と不可能が対立概念であるということ,そして偶然と可能は,精神mensの欠陥,あるいは欠陥とまではいわないとしても,認識cognitioの不足に依拠するということであると僕には思えます。すなわち,神の本性の法則に合致するような事象は,それがどんなに困難に思われるとしても必然的にnecessario生じ,逆に神の本性の法則に反するような事象というのは,たとえそれがどんなに容易に感じられるようなことであったとしても,生じることが不可能なのです。つまり困難さとか容易さといった認識が,偶然とか可能といった認識に直接的に結びつくのですが,実際には,どんな事象も必然的necessariusであるか不可能であるかのどちらかでしかないということになります。
 個物の作用は事象のひとつです。ですから上述のことが該当することになります。

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