『個と無限』を読了しました。
論文集です。合計で6の論文。ただし第四章には付論があるので、実質的には7の論文ともいえます。
第一章の「「エチカ」第一部の二つの因果性がめざすもの」についてはすでに詳しく紹介してあります。
第二章はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausのスピノザに対する質問を巡っての論考。ここで佐藤がいっていることは、僕にはきわめて当然のことに思えました。チルンハウスの質問主意の理解に、解釈の相違が生じたということ自体が僕には不思議です。
第三章は平行論の同一個体について。僕が最も得るところが大きかったのはこの論文。同一個体が何であるかということについて、僕の見解と佐藤の見解は一致します。ただ、佐藤はこれを、スピノザによる第二部定理七の論証Demonstratioから説明しています。この説明の仕方が僕にはとても有益でした。
第四章は、『エチカ』で神秘的ともいわれる第五部、とりわけその後半部分に関する考察。単純にいうとスピノザは第五部定理二三で、人間の精神mens humanaの中のあるものaliquidは、身体corpusの死と共に破壊されないという主旨のことをいっています。佐藤はここで、あるもの、という語句に注視していますが、これは僕にとって新しい見方でした。
付論は「人間と動物」というタイトル。ある種のエコロジーとスピノザ哲学の関連性の探求です。
第五章は第四部の問題という副題がついていますが、これは主に正義justitiaとは何であるかを巡る考察といえます。
本論とは無関係ですが、この第五章の冒頭に、ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの『悲劇の誕生』の一節が、ドイツ語で記されています。何の解説もないので、どの部分であるか調べるのに苦労しました。論文は僕のような門外漢の目に触れることはないでしょうが、本にまとめるなら何らかの説明を入れてほしかったです。第九章の最後の部分。岩波文庫版の秋山英夫は「すべて現存するものは正当で、また不当である。そしてそのどちらにも同じ権利がある」と訳しています。
第六章はスピノザの方法論について。スピノザ哲学の方法論について説明し出すと大変なので、そういう内容であるということだけをいっておくことにします。
もうひとつ、第二部定理一一と第二部定理一一系から、現実的に存在するすべての個物res singularisの観念ideaは、神Deusの無限知性intellectus infinitusの一部であるということが帰結するというのが僕の考え方です。これについても多少の説明を与えておきます。
ここで無限知性の一部であるというとき、それは無限知性の部分であるという意味ではありません。第一部定理一三備考から、直接無限様態を部分に分割することが不可能であるということは、間接無限様態に関してそのことを論証したのと同じ理由によって帰結するからです。ここではスピノザは部分とはいわずに一部といっていますが、たとえ部分という語句を用いていたとしても、そのように解することはできません。
ではこの一部というのは何を意味していると考えればよいのでしょうか。ごく簡単にいうなら、それはどのような個物の観念であったとしても、それは神の観念idea Dei、いい換えれば思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態である無限知性と関連付けて理解することができるということです。そしてその関連付けの様式によって、第二部定理一一系の具体的意味というのが発生してくるのです。
このことはおそらく、スピノザの認識論の特徴のひとつである、主体の排除ということと関係します。一般に僕たちは、たとえばAがXを認識するcognoscereというとき、Aの精神mensがXを認識するというように理解します。そのこと自体がひどく間違っているとは僕はいいません。しかし実際にはそれは、無限知性あるいは神がある認識作用を行っているということなのであり、Aの認識の様式によって、その作用の神の観念との関連付け方に変化が生じるということなのです。とりわけこのことは、AがXを十全に認識するという場合に明瞭になります。これはAからみれば、Aの精神のうちにXの十全な観念idea adaequataがあるという事態です。しかしこの観念は、無限知性のうちにあるXの観念そのものなのです。つまりこの意味において、認識しているのはAではなく、無限知性そのもの、あるいは神それ自身と理解されるべきなのです。
これで、僕が加えておきたいと考えていた関連事項の説明はすべて終了しました。
論文集です。合計で6の論文。ただし第四章には付論があるので、実質的には7の論文ともいえます。
第一章の「「エチカ」第一部の二つの因果性がめざすもの」についてはすでに詳しく紹介してあります。
第二章はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausのスピノザに対する質問を巡っての論考。ここで佐藤がいっていることは、僕にはきわめて当然のことに思えました。チルンハウスの質問主意の理解に、解釈の相違が生じたということ自体が僕には不思議です。
第三章は平行論の同一個体について。僕が最も得るところが大きかったのはこの論文。同一個体が何であるかということについて、僕の見解と佐藤の見解は一致します。ただ、佐藤はこれを、スピノザによる第二部定理七の論証Demonstratioから説明しています。この説明の仕方が僕にはとても有益でした。
第四章は、『エチカ』で神秘的ともいわれる第五部、とりわけその後半部分に関する考察。単純にいうとスピノザは第五部定理二三で、人間の精神mens humanaの中のあるものaliquidは、身体corpusの死と共に破壊されないという主旨のことをいっています。佐藤はここで、あるもの、という語句に注視していますが、これは僕にとって新しい見方でした。
付論は「人間と動物」というタイトル。ある種のエコロジーとスピノザ哲学の関連性の探求です。
第五章は第四部の問題という副題がついていますが、これは主に正義justitiaとは何であるかを巡る考察といえます。
本論とは無関係ですが、この第五章の冒頭に、ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの『悲劇の誕生』の一節が、ドイツ語で記されています。何の解説もないので、どの部分であるか調べるのに苦労しました。論文は僕のような門外漢の目に触れることはないでしょうが、本にまとめるなら何らかの説明を入れてほしかったです。第九章の最後の部分。岩波文庫版の秋山英夫は「すべて現存するものは正当で、また不当である。そしてそのどちらにも同じ権利がある」と訳しています。
第六章はスピノザの方法論について。スピノザ哲学の方法論について説明し出すと大変なので、そういう内容であるということだけをいっておくことにします。
もうひとつ、第二部定理一一と第二部定理一一系から、現実的に存在するすべての個物res singularisの観念ideaは、神Deusの無限知性intellectus infinitusの一部であるということが帰結するというのが僕の考え方です。これについても多少の説明を与えておきます。
ここで無限知性の一部であるというとき、それは無限知性の部分であるという意味ではありません。第一部定理一三備考から、直接無限様態を部分に分割することが不可能であるということは、間接無限様態に関してそのことを論証したのと同じ理由によって帰結するからです。ここではスピノザは部分とはいわずに一部といっていますが、たとえ部分という語句を用いていたとしても、そのように解することはできません。
ではこの一部というのは何を意味していると考えればよいのでしょうか。ごく簡単にいうなら、それはどのような個物の観念であったとしても、それは神の観念idea Dei、いい換えれば思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態である無限知性と関連付けて理解することができるということです。そしてその関連付けの様式によって、第二部定理一一系の具体的意味というのが発生してくるのです。
このことはおそらく、スピノザの認識論の特徴のひとつである、主体の排除ということと関係します。一般に僕たちは、たとえばAがXを認識するcognoscereというとき、Aの精神mensがXを認識するというように理解します。そのこと自体がひどく間違っているとは僕はいいません。しかし実際にはそれは、無限知性あるいは神がある認識作用を行っているということなのであり、Aの認識の様式によって、その作用の神の観念との関連付け方に変化が生じるということなのです。とりわけこのことは、AがXを十全に認識するという場合に明瞭になります。これはAからみれば、Aの精神のうちにXの十全な観念idea adaequataがあるという事態です。しかしこの観念は、無限知性のうちにあるXの観念そのものなのです。つまりこの意味において、認識しているのはAではなく、無限知性そのもの、あるいは神それ自身と理解されるべきなのです。
これで、僕が加えておきたいと考えていた関連事項の説明はすべて終了しました。
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