スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東北地方太平洋沖地震被災地支援共同通信社杯春一番&問題の発生

2011-04-11 18:24:18 | 競輪
 東日本大震災の後,競輪は開催を自粛していましたが,今月に入って西日本を中心に再開。武雄競輪場で予定されていた共同通信社杯春一番も7日から予定通りに実施され,昨日が決勝でした。並びは平原-武田-長塚-芦沢の関東,松岡-合志-井上の九州で,岩本と浅井は単騎。
 牽制となりましたが誘導の後ろには松岡が入って前受け。4番手に平原,8番手に浅井で,岩本は浅井を追走するレースに。残り2周半前後から芦沢が上昇し,平原がこれを追う形に。残り2周のホームで芦沢が前を斬り,平原以下を迎え入れると,浅井が外を上昇して5番手。松岡は引いて7番手で打鐘。一列棒状のままホームから平原が先行。浅井の捲りは3番手の長塚が牽制。直線から武田が踏み出すと抜け出して優勝。マークの長塚も続いて茨城のワンツー。直線で内目を突っ込んだ松岡が3着。
 優勝した茨城の武田豊樹選手は2月の東王座戦を優勝していて今年のビッグ2勝目。通算では7勝目。粘られる危険性はありましたが,芦沢のアシストでうまく避けられました。結果的にやや単調な展開になりましたので,レース自体は楽だったのではないかと思います。茨城も被災地で,ワンツーはいいニュースでしょう。
                        

 第一部定義四に含まれていると僕が考えているふたつの論点のうち,認識論と実在論の問題に関しては,スピノザがこの定義を記述するときに,それを字義通りに理解しようとするならば,認識論的な意味でしか読解できないという点から発生しています。よって,これについてはそれ以上の特別の説明というのは不要であると思います。しかし実在的と名目的という問題がどうして生じてしまうのかということについては,少なくともこの定義自体から明らかになるとはいえません。そこでまず,なぜこうした問題が発生してくるのかということを考えておくことにします。
 これは岩波文庫版の『エチカ』冒頭の訳者である畠中尚志さんの解説でも触れられていることですが,スピノザは同時期の哲学者であったライプニッツと会見した際に,世間一般の哲学は被造物,すなわちスピノザの哲学でいうところの実体の変状ないしは様態から始まり,デカルトの哲学は精神から始まるが,自分の哲学,つまりスピノザの哲学ですが,これは神から始まるのだという主旨のことを述べたと伝えられています。
 しかし,実際に『エチカ』を読んでみればすぐに分かることですが,『エチカ』の冒頭,すなわち第一部定義一というのは自己原因についての定義です。したがってこれでみれば,『エチカ』は神から始まるというよりも,自己原因から始まっているといった方が正しいようにも思えます。そして『エチカ』に初めて神Deusという単語が登場するのは,いうまでもなく第一部定義六なのです。
 しかも,ことはこれだけにはとどまりません。スピノザは第二部定義六で,事物の実在性と完全性を等置したことからも理解できるように,実在的であるということに,別のいい方をするなら事物が有であるということについて,ある特別のこだわりを有した哲学者でした。したがって神についてもまずはその実在ということが当然ながら最初の,そして最大の問題となってくるのですが,実際に『エチカ』において神が確かに実在するといわれるのは,実に第一部定理一一まで待たなければなりません。つまりスピノザは自分の哲学は神から始まると述べたとされますが,実際の『エチカ』は,第一部定理一一になって,ようやくその開始地点に到達したといえるのです。

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