スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典ダイオライト記念&共通認識

2018-03-15 19:06:54 | 地方競馬
 昨晩の第63回ダイオライト記念
 好発はマイネルバサラ。しかし内からケイティブレイブが押していくとマイネルバサラが控えたのでケイティブレイブの逃げ。1馬身差でマイネルバサラ。4馬身ほど開いてアポロケンタッキーが3番手。また4馬身ほど開いてウマノジョーが4番手。2馬身ほど開いてスノーモンキー,チェダー,ドルメロ。3馬身ほど開いてツルオカハチマンとヒロノプリンスが並んで最後尾。実力差のあるメンバーだったため,1周目の向正面から縦長の隊列になりました。最初の1000mは63秒1のミドルペース。
 1周目の正面では7馬身ほどに開いていた2番手と3番手との差が徐々に詰まり,2周目の向正面に入るとアポロケンタッキーが自ら動いていきました。3コーナーではケイティブレイブ,マイネルバサラ,アポロケンタッキーの3頭が雁行に。ここからマイネルバサラが脱落し,ケイティブレイブとアポロケンタッキーの優勝争い。直線に入るとケイティブレイブがアポロケンタッキーを突き放し,逃げ切って優勝。アポロケンタッキーが1馬身半差で2着。直線に入ってまたじわじわと盛り返してきたマイネルバサラが2馬身差で3着。
                                
 優勝したケイティブレイブは前々走の川崎記念以来の勝利で重賞7勝目。ここはケイティブレイブが勝つかアポロケンタッキーが勝つかというレース。前半はマイネルバサラに絡まれましたが,マイネルバサラよりは実力上位であることは明白でしたから,大きな不利にはなりませんでした。かえってアポロケンタッキーとの差が大きくなり,アポロケンタッキーが追いつくまでに脚を使わなければならなくなった分,有利に働いたのかもしれません。それでもまず絡んできた馬,次に絡んできた馬を共に脱落させての逃げ切りですから,着差以上の力量差があるとみることもできます。どうやらアポロケンタッキーよりは上に立ったとみていいのではないでしょうか。父はアドマイヤマックス。母の父はサクラローレル。母の12歳上の半兄に1999年に北海道スプリントカップ,2000年にガーネットステークス,黒船賞,群馬記念,かしわ記念,朱鷺大賞典,2001年にガーネットステークス,とちぎマロニエカップを勝ったビーマイナカヤマ
 騎乗した福永祐一騎手はダイオライト記念初勝利。前任が2月で定年となったため今月から管理することになった杉山晴紀調教師は開業から1年5ヶ月で重賞初勝利。

 少しだけ逸れますが,ここで探求している事柄も,スピノザの哲学における主体の排除と関係しています。というのも,ここではだれが悲しみtristitiaを感じていて,それを正当あるいは不当と認識しているかということが考察のひとつの焦点になっているからです。第三部定理五九が示すように,悲しみは必然的にnecessario受動passioです。スピノザの哲学では,ごく一般的にそう思われているのとは違って,人間が働きを受けるpati場合に主体を措定することに意味があるということはすでに説明した通りです。
 悲しみは第三部諸感情の定義三によって,現実的に存在する人間がより大なる完全性perfectioからより小なる完全性へ移行することです。この移行transitioは第三部定理七に示されるものの現実的本性actualis essentiaに反します。したがって現実的に存在している人間の本性natura humanaに反します。この意味において,すべての悲しみは現実的に存在する人間にとっては不当です。この場合の不当は,それが第三部諸感情の定義二の喜びlaetitiaと比較された上での認識cognitioです。このことは一般的な真理veritasであるといっていいのであって,現実的に存在する人間は必ず喜びも感じますし悲しみも感じますから,喜びと悲しみを比較することは可能であり,この意味において悲しみが不当と判断されるということは,現実的に存在する万人に妥当するといっていいでしょう。
 ただし,僕たちは悲しみを感じたからといって,上述の意味おいてそれが不当であるということを直ちにあるいは強く意識するというものではありません。というのは,第四部定理四系が示していること,すなわち現実的に存在する人間が受動に隷属することから逃れることはできないということは,明瞭にであれ漠然とであれ,だれもが知っているのであって,このために自分の力potentiaすなわち第三部定理七で,悲しみに反するものとして規定されている現実的本性であるところのコナトゥスconatusによっては,逃れることが不可能な悲しみがあるということは,概ね共通の理解として成立しているからです。いい換えれば生きている以上は悲しみを感じることもある,感じざるを得ないということは現実的に存在する人間の共通認識であり,だからそのすべてを不当とは意識しないのです。

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