スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

椿賞争奪戦&期待

2019-12-24 19:03:38 | 競輪
 伊東温泉記念の決勝。並びは渡辺雄太‐中村の南関東,伊藤‐吉村の中部,三谷‐村上‐渡辺十夢の近畿,原田‐池田の四国。
 伊藤がスタートを取って前受け。3番手に三谷,6番手に原田,8番手に渡辺雄太で周回。残り3周のホームの出口から渡辺雄太が上昇開始。中村の後ろに原田が続き,バックの出口でこの2つのラインの4人が伊藤を叩きました。伊藤の外まで上昇していたのが三谷で,残り2周のホームに入るとさらに上昇していき,コーナーに入るところでこのラインが渡辺雄太を叩きました。引いた伊藤はバックからかましていき,三谷を叩いて打鐘から先行。車間の開いた3番手に三谷,6番手に渡辺雄太,8番手に原田で縦長の一列棒状に。三谷は後ろからの捲りを待たずにバックの入口から発進。このラインで捲り切りました。渡辺雄太はこの後ろから捲り上げていきましたが,村上が少し車間を開けていたために届かず,捲った三谷が優勝。村上が1車輪差の2着に続いて近畿のワンツー。渡辺雄太が4分の3車身差で3着。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は10月の松戸での千葉記念以来の優勝で記念競輪5勝目。伊東温泉記念は初優勝。ここは力が上位なので優勝の最有力候補とみていました。積極的に渡辺雄太を叩きにいき,若い伊藤の先行を誘って3番手を取った競走もうまかったので,これではほかの選手たちが太刀打ちできなかったのも仕方がないところでしょう。今年はグランプリには出場することができませんでしたが,来年以降にも大いに期待できる選手だと思います。

 なぜ齟齬が生じているのかは,スピノザが想定している反駁者がどのような者であったのかということから明白です。スピノザが想定している反駁者の精神mensのうちには神Deusの真の観念idea veraはありません。このことは僕の推測なのではなくて,スピノザによる解答の論理構成からそうでなければならないことです。そしてそういう反駁者,神の真の観念を有していない,したがって神について確実であることは絶対にできない反駁者に対して,スピノザは三角形について確実であることを期待して説明しているのです。この期待が成立するためには,神の真の認識cognitioあるいは確実性certitudoがなくても三角形について確実であることができるのでなければなりません。確かに緒論全体の文脈の中ではスピノザは,三角形の確実性の前提として神についての確実性を措定しているのですが,スピノザが何を期待しているのかということまで予想すれば,神について確実でなくても三角形について確実であることができるのでなければならないのです。したがってスピノザはこのような期待を仄めかしている時点で,実際には確実性を真の観念と等置しているのであって,三角形の確実性は三角形の真の観念にのみ依拠するのであり,神の真の観念あるいは神の確実性には依拠しないと考えていたのだと僕は思います。反駁者の三段論法についていえば,記述上は第一段目を認めて第二段目と第三段目を否定するとなっていて,全体はそのように読解できますが,このような期待は,明らかに第一段目をも否定してしまう期待であるといえるでしょう。
                                       
 同じようなことは,この部分を別の角度から読み込むことによっても推測可能です。たとえば,ここでは神と人間の本性natura humanaの創造者が別の存在者として描かれていますが,少なくともスピノザの哲学では,人間の本性の創造者すなわち起成原因causa efficiensは神でした。また,スピノザがここで自身の哲学では用いない創造者という語を用いたのは,神を創造主,自由な意志voluntas liberaによる創造主として規定する人びとにも通用するようにであったのだという僕の見解opinioが正しいとするなら,その場合にも人間の本性の創造者と神を別に規定することは困難になってしまうように思えます。

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