一昨日,昨日と松本市で指された第67期王将戦七番勝負第六局。
先手の豊島将之七段が執拗に居飛車を誘う序盤戦でしたが久保利明王将は中飛車に。4筋に振り直した後手が4筋を凹ませ,先手は馬を作るという展開。中盤の第二次の戦いは先手からでしたが,後手の金得になり,そこで後手がリード。感想では暴発だったかもといわれていますが,先手は玉頭を攻めることに逆転の望みを託しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/d4/7e84f4a459c53a5f4ac3c035c0dd75b5.png)
ここで☗8五歩と突いていったのが先手の勝負手。後手は☖3六飛。先手は☗4三歩と打ち☖3四飛☗4二歩成☖同金と角金交換。さらに☗8四歩と突きましたが☖3七飛成で後手の駒得が拡大しました。もっとも,部分的な戦いになれば駒得はそうも生きませんから,先手としては仕方がないところでしょう。
☗7五桂には☖7一桂と取ったばかりの桂馬で受けることができます。先手は☗2二飛と打ち☖4一歩と金取りを受けたところで☗1二飛成で香車を入手。後手は☖7四歩と催促し☗8三桂成☖同桂と進めました。
これには☗8七香と打つのが絶好に思えたのですが素晴らしい切り返しがありました。それが☖7五桂とただのところに跳ねる手です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/91/72844a466735ae3b0fbcbab0bd0f168e.png)
☗8三歩成でも☗8三金でも後手玉は寄らないので☗同歩と取りましたが,馬筋が通ったので☖8六歩~☖8五歩で香車の威力を遮断。第2図の☖7五桂が実質的な決め手であったという将棋でした。
4勝2敗で久保王将が防衛。第59期,60期,66期に続く連覇で4期目の王将位です。
すべての悲しみtristitiaを不当と意識することはないということは,悲しみを感じてもそれを不当と意識することはないという意味ではありません。そうではなくて,不当とは意識されないような悲しみもあれば,不当であると意識されるような悲しみもあるという意味です。
ここから次のことが理解できます。もしある悲しみが何らかの喜びlaetitiaと比較されるなら,悲しみは現実的本性actualis essentiaに反する感情affectusであり,喜びは現実的本性に適合する感情なのですから,すべての悲しみが不当であると認識されなければなりません。ところが実際にはそうなっていないのですから,僕たちは悲しみについてそれを正当であるとか不当であると判断する場合には,喜びとはあまり比較しないのです。つまり別の事柄との比較の上で,それを不当であるあるいは正当であると判断するのです。
このことは喜びの場合について考えた方が分かりやすいかもしれません。すべての悲しみは不当であるということは一般的な真理veritasであるということを示したのと同じ理由から,すべての喜びは現実的に存在する人間にとって正当であるということが帰結します。しかし僕たちは喜びを感じたときに必ずしもそれが正当なものであるというようには認識しません。むしろある喜びを感じることによって罪悪感を感じてしまうというようなケースもあるのではないかと思います。これは喜びを感じたその人間が,自分自身が感じたその喜びについてそれを不当であると判断しているのです。たとえばスピノザは第三部定理二三備考で,心情の動揺animi fluctuatioを伴わずにはいられないような喜びについて語っていますし,もっと直接的に,ある喜びを感じるがゆえに感じざるを得ないような悲しみについても言及しています。これは第三部定理四七です。
「我々の憎むものが滅ぼされたりあるいは他の何らかの害悪を受けたりすることを我々が表象することによって生ずる喜びは,同時にある悲しみを伴うものである」。
この定理Propositioは第三部定理二七から明白です。
さらに,スピノザは示していませんが,これらのように必然的にnecessario悲しみを伴うがゆえにのみ,喜びが不当であるとみなされるわけではないと僕は思います。
先手の豊島将之七段が執拗に居飛車を誘う序盤戦でしたが久保利明王将は中飛車に。4筋に振り直した後手が4筋を凹ませ,先手は馬を作るという展開。中盤の第二次の戦いは先手からでしたが,後手の金得になり,そこで後手がリード。感想では暴発だったかもといわれていますが,先手は玉頭を攻めることに逆転の望みを託しました。
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ここで☗8五歩と突いていったのが先手の勝負手。後手は☖3六飛。先手は☗4三歩と打ち☖3四飛☗4二歩成☖同金と角金交換。さらに☗8四歩と突きましたが☖3七飛成で後手の駒得が拡大しました。もっとも,部分的な戦いになれば駒得はそうも生きませんから,先手としては仕方がないところでしょう。
☗7五桂には☖7一桂と取ったばかりの桂馬で受けることができます。先手は☗2二飛と打ち☖4一歩と金取りを受けたところで☗1二飛成で香車を入手。後手は☖7四歩と催促し☗8三桂成☖同桂と進めました。
これには☗8七香と打つのが絶好に思えたのですが素晴らしい切り返しがありました。それが☖7五桂とただのところに跳ねる手です。
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☗8三歩成でも☗8三金でも後手玉は寄らないので☗同歩と取りましたが,馬筋が通ったので☖8六歩~☖8五歩で香車の威力を遮断。第2図の☖7五桂が実質的な決め手であったという将棋でした。
4勝2敗で久保王将が防衛。第59期,60期,66期に続く連覇で4期目の王将位です。
すべての悲しみtristitiaを不当と意識することはないということは,悲しみを感じてもそれを不当と意識することはないという意味ではありません。そうではなくて,不当とは意識されないような悲しみもあれば,不当であると意識されるような悲しみもあるという意味です。
ここから次のことが理解できます。もしある悲しみが何らかの喜びlaetitiaと比較されるなら,悲しみは現実的本性actualis essentiaに反する感情affectusであり,喜びは現実的本性に適合する感情なのですから,すべての悲しみが不当であると認識されなければなりません。ところが実際にはそうなっていないのですから,僕たちは悲しみについてそれを正当であるとか不当であると判断する場合には,喜びとはあまり比較しないのです。つまり別の事柄との比較の上で,それを不当であるあるいは正当であると判断するのです。
このことは喜びの場合について考えた方が分かりやすいかもしれません。すべての悲しみは不当であるということは一般的な真理veritasであるということを示したのと同じ理由から,すべての喜びは現実的に存在する人間にとって正当であるということが帰結します。しかし僕たちは喜びを感じたときに必ずしもそれが正当なものであるというようには認識しません。むしろある喜びを感じることによって罪悪感を感じてしまうというようなケースもあるのではないかと思います。これは喜びを感じたその人間が,自分自身が感じたその喜びについてそれを不当であると判断しているのです。たとえばスピノザは第三部定理二三備考で,心情の動揺animi fluctuatioを伴わずにはいられないような喜びについて語っていますし,もっと直接的に,ある喜びを感じるがゆえに感じざるを得ないような悲しみについても言及しています。これは第三部定理四七です。
「我々の憎むものが滅ぼされたりあるいは他の何らかの害悪を受けたりすることを我々が表象することによって生ずる喜びは,同時にある悲しみを伴うものである」。
この定理Propositioは第三部定理二七から明白です。
さらに,スピノザは示していませんが,これらのように必然的にnecessario悲しみを伴うがゆえにのみ,喜びが不当であるとみなされるわけではないと僕は思います。
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