今年度は小田原競輪場を舞台として争われた花月園メモリアルの決勝。並びは矢口ー阿部の上越,松田ー十文字の茨城,岸沢ー有坂で東日本,伊藤ー松岡-小岩の西日本。
誘導の後ろに岸沢,3番手に矢口,5番手に伊藤という隊列を松田が抑えにいったのが残り2周のホームに入る前。これをさらに外から伊藤が叩いたのがホーム。そこから伊藤はほとんどペースを落とさなかったので,4番手に松田,6番手に岸沢,8番手に矢口という一列棒状で打鐘から残り1周のホームに。後ろにおかれた矢口が巻き返していきましたが,バックに入ると松岡が番手から発進。矢口も頑張りましたが一杯に。直線はそのまま後ろを振り切って松岡が優勝。松田の後ろから松岡の外に進路を取った十文字が2着で,内に行った松田が3着。
優勝した兵庫の松岡健介選手はこれがグレードレースの初優勝。ここはダービーを直後に控えている関係から主力級の選手の参戦はなく,その中では優勝候補のひとりと目されていました。今日は伊藤が気風よくいってくれた上に少しも絡まれるシーンがありませんでしたので,やや恵まれた面があったことは確かでしょうが,完全優勝でしたから,今回のメンバーでは力量も上位であったようです。
第二部定理一一と第二部定理一五から,人間の精神mens humanaというのが,多数の個物res singularisの観念ideaによって構成されているひとつの観念であるということだけを読み解くとすれば,これは人間の精神というものが,ひとつの知性intellectusにほかならないということになります。そしてもちろんこのことは,とくに人間の精神だけに該当するような事柄ではありません。しかもそれは,人間の精神のような有限なfinitum知性にのみ該当するのではなく,神Deusの無限知性intellectus infinitusにも該当しなければならないでしょう。よってこうした観点から神の無限知性というのを理解するならば,それは無限に多くのinfinita観念が協同して組織するようなひとつの知性であるということになると思います。
福居純は『スピノザ「共通概念」試論』の中で,無限知性というのはひとつの個物であるとみなしてよいと主張しています。無限知性というのは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態ですから,第一部定理二一の仕方で,神の思惟の属性を直接的な原因causaとして発生します。いい換えれば第二部定理九の仕方で,ある個物の観念に変状した限りでの神の思惟の属性から発生すると規定されている個物の観念とは異なりますから,僕は無限知性が個物であると主張すること自体には懐疑的ですが,福居純がそこでいわんとしている事柄は,僕がここで展開している論理とそう隔たりがあるものではないと思います。
ところで,知性というのが思惟の様態cogitandi modiであるということは,とりもなおさず知性がある思惟作用をなすものであるということを意味します。それが思惟の様態である限り,何らかの思惟作用をなさなければならないということは,僕が第二部定義三をテーマとして設定したときに詳しく分析した事柄ですので,ここではそれを繰り返しません。ただ,第二部公理三にあるように,思惟の様態のうち第一のものというのは観念ですから,ある思惟作用をなすということは,それが何らかの観念を形成するということが第一義的な意味でなければならないということにはここでも注意しておいてください。したがって知性というのは,それがどんな知性であったとしても,何らかの観念を形成しなければならないということになるのだと僕は考えます。
誘導の後ろに岸沢,3番手に矢口,5番手に伊藤という隊列を松田が抑えにいったのが残り2周のホームに入る前。これをさらに外から伊藤が叩いたのがホーム。そこから伊藤はほとんどペースを落とさなかったので,4番手に松田,6番手に岸沢,8番手に矢口という一列棒状で打鐘から残り1周のホームに。後ろにおかれた矢口が巻き返していきましたが,バックに入ると松岡が番手から発進。矢口も頑張りましたが一杯に。直線はそのまま後ろを振り切って松岡が優勝。松田の後ろから松岡の外に進路を取った十文字が2着で,内に行った松田が3着。
優勝した兵庫の松岡健介選手はこれがグレードレースの初優勝。ここはダービーを直後に控えている関係から主力級の選手の参戦はなく,その中では優勝候補のひとりと目されていました。今日は伊藤が気風よくいってくれた上に少しも絡まれるシーンがありませんでしたので,やや恵まれた面があったことは確かでしょうが,完全優勝でしたから,今回のメンバーでは力量も上位であったようです。
第二部定理一一と第二部定理一五から,人間の精神mens humanaというのが,多数の個物res singularisの観念ideaによって構成されているひとつの観念であるということだけを読み解くとすれば,これは人間の精神というものが,ひとつの知性intellectusにほかならないということになります。そしてもちろんこのことは,とくに人間の精神だけに該当するような事柄ではありません。しかもそれは,人間の精神のような有限なfinitum知性にのみ該当するのではなく,神Deusの無限知性intellectus infinitusにも該当しなければならないでしょう。よってこうした観点から神の無限知性というのを理解するならば,それは無限に多くのinfinita観念が協同して組織するようなひとつの知性であるということになると思います。
福居純は『スピノザ「共通概念」試論』の中で,無限知性というのはひとつの個物であるとみなしてよいと主張しています。無限知性というのは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態ですから,第一部定理二一の仕方で,神の思惟の属性を直接的な原因causaとして発生します。いい換えれば第二部定理九の仕方で,ある個物の観念に変状した限りでの神の思惟の属性から発生すると規定されている個物の観念とは異なりますから,僕は無限知性が個物であると主張すること自体には懐疑的ですが,福居純がそこでいわんとしている事柄は,僕がここで展開している論理とそう隔たりがあるものではないと思います。
ところで,知性というのが思惟の様態cogitandi modiであるということは,とりもなおさず知性がある思惟作用をなすものであるということを意味します。それが思惟の様態である限り,何らかの思惟作用をなさなければならないということは,僕が第二部定義三をテーマとして設定したときに詳しく分析した事柄ですので,ここではそれを繰り返しません。ただ,第二部公理三にあるように,思惟の様態のうち第一のものというのは観念ですから,ある思惟作用をなすということは,それが何らかの観念を形成するということが第一義的な意味でなければならないということにはここでも注意しておいてください。したがって知性というのは,それがどんな知性であったとしても,何らかの観念を形成しなければならないということになるのだと僕は考えます。
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