安堵securitasと絶望desperatioと歓喜gaudiumと落胆conscientiae morsusという四種類の感情affectusの解釈に関連する畠中説の不都合がどこにあると僕が考えているのかは理解していただけたでしょう。しかしこれは,畠中の説には不都合が生じているというだけであって,僕の解釈,すなわち希望spesから生じ得るあらゆる感情は不安metusからも生じ得るし,また不安から生じ得るようなあらゆる感情が希望からも生じ得るという解釈の説明とはなっていません。すでに示したように僕はこのことを,希望と不安が表裏一体の感情であるという第三部諸感情の定義一三説明を根拠として解釈しているのですが,今度は,畠中の解釈には不都合があるという観点に関連した,別の根拠を示すことにします。
まず,第三部諸感情の定義一二と第三部諸感情の定義一三から明らかなように,希望も不安も,過去だけに関連するわけではなく未来とも関連します。さらに,希望も不安も,あるものの観念ideaを単に伴っているような感情ではなく,ある観念から生じる感情です。スピノザの哲学において原因causaというのは一義的に起成原因causa efficiensを意味します。生じるというのはものの,この場合には感情の発生を意味するのですから,ものの観念は希望および不安という感情に対しては原因でなければなりません。一方,単に伴っているといわれる場合は原因性を意味することはありません。たとえば第三部諸感情の定義六の愛amorと第三部諸感情の定義七の憎しみodiumは,外部の原因の観念を伴っているconcomitante idea cause externaeといわれているから観念の原因性を保持できるのであり,もし原因という文言がなければ原因性を認めることはできません。そうでなければ原因の観念という文言は不要になるからです。
よって,第三部諸感情の定義一四の安堵と第三部諸感情の定義一五の絶望は,過去だけでなく未来とも関係する上に,ものの観念の原因性を示しているのに対し,第三部諸感情の定義一六の歓喜と第三部諸感情の定義一七の落胆は,過去だけとしか関連できない上にものの観念の原因性を認めることもできないのです。まず僕はこの点,すなわち過去および未来との関連性と,ものの観念の原因性,他面からいえば実際に『エチカ』に記述されている文言を重視します。
理性ratioによる認識cognitioは第二種の認識cognitio secundi generisで,この認識は共通概念notiones communesによる認識です。共通概念がどういった概念であるのかは第二部定理三八と第二部定理三九で示されています。このうち第二部定理三八はすべてのものに共通する何らかの事柄に関する認識で,第二部定理三九はすべてのものではなく,いくつかのものに共通する何らかの事柄についての認識です。よって,第二部定理三八の方がより一般的な認識であり,第二部定理三九の方がより個別な認識に近いことになります。ですからスピノザが事物をなるべく個別に認識するcognoscereことを目指していたとすれば,同じ共通概念でも,第二部定理三八の様式で認識される共通概念よりは第二部定理三九の様式で認識される共通概念の方が,より好ましい認識であるということができます。このような見解を示している識者の代表はドゥルーズGille Deleuzeです。
ですが,第二部定理三七によれば,どのような様式を通して認識されるとしても,共通概念は個物res singularisの本性essentiaを認識しているわけではありません。スピノザが目指すのは可能な限り事物を個別に認識することなのですから,それは個物を認識することであり,もっというなら各々の個物をあの個物またはこの個物としてより個別的に認識することにあります。ところが理性による第二種の認識は,個物をそのように認識するためには役立たないのです。つまりこのような意味において,『エチカ』には理性による認識の限界というのが示されているのです。いい換えれば,スピノザは自身が目指している事物の個別的な認識は,理性による認識では不可能であるということを認めているのです。
これはゲーデルの不完全性定理とは何の関係もない限界ではあるのですが,限界が認められているという点にはとても意味があります。なぜなら,理性による認識に限界があるのだとすれば,その限界は乗り越えられなければならないからです。他面からいえば,理性による認識による限界を乗り越えるような,別の認識が必要とされることになるからです。これはちょうど,カヴァイエスJean Cavaillèsが不完全性定理を乗り越えるために,公理系を証明するための学知scientiaとは異なる認識を必要としたということと同じです。
まず,第三部諸感情の定義一二と第三部諸感情の定義一三から明らかなように,希望も不安も,過去だけに関連するわけではなく未来とも関連します。さらに,希望も不安も,あるものの観念ideaを単に伴っているような感情ではなく,ある観念から生じる感情です。スピノザの哲学において原因causaというのは一義的に起成原因causa efficiensを意味します。生じるというのはものの,この場合には感情の発生を意味するのですから,ものの観念は希望および不安という感情に対しては原因でなければなりません。一方,単に伴っているといわれる場合は原因性を意味することはありません。たとえば第三部諸感情の定義六の愛amorと第三部諸感情の定義七の憎しみodiumは,外部の原因の観念を伴っているconcomitante idea cause externaeといわれているから観念の原因性を保持できるのであり,もし原因という文言がなければ原因性を認めることはできません。そうでなければ原因の観念という文言は不要になるからです。
よって,第三部諸感情の定義一四の安堵と第三部諸感情の定義一五の絶望は,過去だけでなく未来とも関係する上に,ものの観念の原因性を示しているのに対し,第三部諸感情の定義一六の歓喜と第三部諸感情の定義一七の落胆は,過去だけとしか関連できない上にものの観念の原因性を認めることもできないのです。まず僕はこの点,すなわち過去および未来との関連性と,ものの観念の原因性,他面からいえば実際に『エチカ』に記述されている文言を重視します。
理性ratioによる認識cognitioは第二種の認識cognitio secundi generisで,この認識は共通概念notiones communesによる認識です。共通概念がどういった概念であるのかは第二部定理三八と第二部定理三九で示されています。このうち第二部定理三八はすべてのものに共通する何らかの事柄に関する認識で,第二部定理三九はすべてのものではなく,いくつかのものに共通する何らかの事柄についての認識です。よって,第二部定理三八の方がより一般的な認識であり,第二部定理三九の方がより個別な認識に近いことになります。ですからスピノザが事物をなるべく個別に認識するcognoscereことを目指していたとすれば,同じ共通概念でも,第二部定理三八の様式で認識される共通概念よりは第二部定理三九の様式で認識される共通概念の方が,より好ましい認識であるということができます。このような見解を示している識者の代表はドゥルーズGille Deleuzeです。
ですが,第二部定理三七によれば,どのような様式を通して認識されるとしても,共通概念は個物res singularisの本性essentiaを認識しているわけではありません。スピノザが目指すのは可能な限り事物を個別に認識することなのですから,それは個物を認識することであり,もっというなら各々の個物をあの個物またはこの個物としてより個別的に認識することにあります。ところが理性による第二種の認識は,個物をそのように認識するためには役立たないのです。つまりこのような意味において,『エチカ』には理性による認識の限界というのが示されているのです。いい換えれば,スピノザは自身が目指している事物の個別的な認識は,理性による認識では不可能であるということを認めているのです。
これはゲーデルの不完全性定理とは何の関係もない限界ではあるのですが,限界が認められているという点にはとても意味があります。なぜなら,理性による認識に限界があるのだとすれば,その限界は乗り越えられなければならないからです。他面からいえば,理性による認識による限界を乗り越えるような,別の認識が必要とされることになるからです。これはちょうど,カヴァイエスJean Cavaillèsが不完全性定理を乗り越えるために,公理系を証明するための学知scientiaとは異なる認識を必要としたということと同じです。
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