スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

椿賞争奪戦&賢者

2022-12-26 19:49:31 | 競輪
 昨日の伊東温泉記念の決勝。並びは中野に大川,野原‐村田の近畿,嘉永‐山崎‐中本‐田中の九州で渡辺は単騎。
 野原がスタートを取って前受け。3番手に嘉永,7番手に渡辺,8番手に中野で周回。残り3周のホームの入口から中野が上昇していこうとしましたが,嘉永が自転車を外に出して牽制。この間に村田と嘉永の車間が開いたので,バックで渡辺が内を突いて3番手に追い上げました。ただこれに構わず嘉永が発進。バックの出口ではマークの山崎と共に野原を叩きました。野原は引かずに中本の内で粘りました。この競り合いがバックまで続き,バックで野原が村田を浮かして3番手を奪取して打鐘。嘉永の牽制でいかれなかった中野がここから発進。しかしホームで山崎が番手から発進。山崎の後ろは近畿勢が続き,上昇してきた中野は村田に牽制されて失速。すると村田の後ろにいた渡辺が村田をどかして3番手に。直線は山崎マークのレースになった野原が山崎を差して優勝。野原の外から差し込もうとした渡辺が2着で到達しましたが,内側追い抜きがあったために失格となり,最終コーナーで内を回って山崎と野原の間を突いた大川が4分の3車輪差で繰り上がっての2着。山崎は4分の1車輪差で4着。
 優勝した福井の野原雅也選手は9月の福井のFⅠ以来の優勝。記念競輪は一昨年の広島記念以来となる2勝目。このレースは嘉永の先行が有力。すんなりと駆けられてはほかのラインは苦しくなるのが明白。そのために野原は前で受けて飛びつくとという作戦を採ったのでしょう。その作戦がものの見事に決まっての優勝ですから,作戦勝ちといえる結果だと思います。山崎は番手から出ていくのが少し早すぎたような気はしますが,中本が3番手を守れなかったのが大きな痛手となりました。

 『エチカ』の中で,賢者というのに最も相応しいのは,第四部定理六六備考で示されている自由の人homo liberです。これは異論がないところでしょう。
                                   
 この備考Scholiumの中では,自由の人に対しては奴隷servusが対置されています。したがって,自由の人が賢者であるとみなされるなら,ここで奴隷といわれているのが無知者に該当することになります。はっきりとした形ではありませんが,スピノザは自由の人を無知者と対比的に使用している場合もあります。たとえば第四部定理七〇は,それ自体では無知の人びとと自由の人を対置しているとはいえないかもしれませんが,明らかに対比はしているのであって,したがってこの定理Propositioで無知の人びとといわれている人びとのことを,第四部定理六六備考でいわれている奴隷と同じ意味に解しても,問題はないでしょう。というか,この定理は,自由の人は奴隷たちの親切を避けようとするというように解して間違いないのであって,それはつまり,無知の人びとと奴隷は同じ意味であるということにほかなりません。一方,第五部定理四二備考の無知者と第四部定理七〇の無知の人びとを異なった意味に解するのは無理があります。よって第五部定理四二備考の無知者と,第四部定理六六備考の奴隷は,同じ意味であるとして問題ありません。というより同じ意味であると解するべきでしょう。
 次に,第五部定理四二備考では,無知者が外部の諸々の原因causaから様ざまな仕方で揺り動かされるといっています。これは無知者の受動passioを意味します。このことはそれ自体で明白でしょう。しかしこのことから重要なことが帰結します。というのは,第四部定理四から理解できるように,現実的に存在する人間が働きを受けないでいるということはできないことになっているからです。これでみれば分かるように,現実的に存在するすべての人間は無知者であり奴隷です。他面からいえば,無知者にならずに現実的に存在する人間は存在しません。同じことですが,奴隷にならず現実的に存在し続けられる人間はいません。
 しかしこれでは,賢者とか自由の人ということに,何か意味があるのかが疑問になってくるでしょう。この疑問を解消することにします。
コメント
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