スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

有罪&別の相違

2022-08-19 19:22:47 | 歌・小説
 『ドストエフスキー カラマーゾフの預言』の中に「背後にドストエフスキーを感じながら」という表題の.亀山郁夫と中村文則の対談が掲載されています。その中で亀山が,『カラマーゾフの兄弟』の登場人物のうち,アリョーシャもまた無罪ではあり得ないというマイケル・ホルキストというアメリカの研究者の話を紹介しています。僕はこの点には興味をそそられました。
                                      
 まず,アリョーシャが無罪ではあり得ない,つまり有罪であるとすればそれはどのようなものであるのかということを考える前に,なぜ僕がこの点に関心をもったのかを説明しておきます。
 『カラマーゾフの兄弟』のうち,カラマーゾフの一家を構成する男たちは,父であるフョードル,長男のドミートリイ,次男のイワン,三男のアリョーシャ,そしてリザヴェータを母とするスメルジャコフの父は,僕はフョードルではないと解釈していますが,物語の中ではフョードルはスメルジャコフの父であるということを否定していませんので,このスメルジャコフまで含めた5人です。
 このうち,スメルジャコフはフョードル殺害の真犯人ですから,無罪ということはあり得ません。また,フョードルとドミートリイは,日常的な生活面から無罪というのは困難です。フョードルは殺害されましたが,殺害されるのには殺害されるだけの罪があったということができるでしょうし,冤罪で有罪となったドミートリイは,真犯人ではないとしても有罪とされるだけの根拠があったといえ,このふたりは分かりやすく無罪ではないのです。
 イワンはフョードルやドミートリイとは異なり,理知的な人間で,生活面からは有罪というのは困難ですが,スメルジャコフはイワンの暗黙の意を汲んでフョードルを殺害しました。そこにはイワンのスメルジャコフに対する使嗾というものがあったことになります。この点からイワンは無罪とはいい難く,ある意味ではフョードルやドミートリイ,そしてスメルジャコフよりも罪深いといえます。
 しかしアリョーシャだけは有罪というのは難しいと僕は思っていました。なのでアリョーシャも有罪という見解に興味をもったのです。

 第三部定理二は,まさに人間の精神mens humanaはその人間の身体humanum corpusを運動motusなり静止quiesなりに決定するdeterminareことはできず,また人間の身体はその人間の精神を思惟作用に決定することはできないといっています。このことは,人間の身体が物体corpusであり,人間の精神は思惟の様態cogitandi modiであるので,その間にある区別distinguereは実在的区別であるということを念頭に置きさえすれば,スピノザの哲学の形而上学的論理から直接的に帰結するのです。
 さらに,ホッブズThomas HobbesがデカルトRené Descartesの哲学の形而上学的論理を自身の政治学のために援用したという点に関しては,より重要な相違がスピノザの哲学とデカルトの哲学の間に存在しています。
 第二部定理七は,ある観念idemとその観念対象ideatumは,秩序ordoと連結connexioが一致するといっています。このゆえにある観念とその観念対象は,同一個体であるとスピノザの哲学ではいわれることになるのです。もちろんある観念とその観念対象は,実在的にrealiter区別されなければならないがゆえに,その両者の間で因果関係は成立しません。つまりある観念がその観念対象の原因causaであったり結果effectusであったりすることはできませんし,逆に観念対象がその観念の原因であったり結果であったりすることもできません。他面からいえば,観念対象というのは観念がなくてもあることができるものですし,観念というのは観念対象がなくてもあることができるものです。ただしその両者の間で,秩序と連結は一致するのです。この原理がスピノザの哲学が平行論といわれる大きな理由となっているといえるでしょう。
 第二部定理一三は,ある人間が現実的に存在していると仮定したとき,その人間の精神の観念対象はその人間の身体であるという意味のことをいっています。したがってその人間の精神と身体は同一個体であり,秩序と連結は一致することになります。そしてこのことが,現実的に存在するすべての人間に妥当するので,一般的に人間の精神の観念対象はその人間の身体であるということになり,同様に一般的に人間の精神とその人間の身体の連結と秩序は一致するということになるのです。なので,人間の精神の能動actioと受動passioの秩序は,その人間の身体の能動と受動の秩序に一致しなければなりません。
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