スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑱-3&浅野の指摘

2022-08-05 19:21:16 | ポカと妙手etc
 ⑱-2に示した第1図は,実戦に現れたわけではありません。しかしこの将棋を考えるためには,この図の結論がどうなのかということを知っている必要があります。
                                        
 AIによれば,この図は先手が有利のようです。ただし有利なのであって,はっきりと先手が勝ちといえるような局面ではないということです。しかもその有利を保つためには,ここから先手に三手一組の手順が必要で,それを逃すと後手が有利になります。というかその場合は後手が勝ちに近づくのです。
 この三手一組の手順というのは,第1図から,☗2一飛☖3一歩☗2七銀というものです。なぜこの手順でなければ先手が有利を保つことができないのかという理由は後に示します。今回はこの手順から理解できることを示しておきます。
 第1図の先手玉は,詰めろにはなっていません。よって,王手か詰めろの連続で先手が後手玉を受けなしに追い込めば先手の勝ちなのですが,第1図からそのように進めて先手が勝つ順はないということになります。なので先手は受けなければならず,☗2七銀はそのための受けなのです。
 第1図からこの手順で先手が有利を保つのは,AIにはともかく人間にはきわめて困難です。⑱-1の第1図から後手が☖3六銀と打つと,上の第1図までは想定することができます。その図で先手が有利を保つのが困難であるとすれば,この手順に持ち込んだ後手の判断は的確だったと僕は思います。第1図で☗8四飛以外の手をその段階で想定するのは無理だと思うからです。

 virtusは力potentiaと等置されているので,それを人間の自由libertasとみなすことには問題ありません。しかるに徳は能動的である限りにおいて人間の現実的本性actualis essentiaなのですから,それはコナトゥスconatusの一部を構成します。したがって,第三部定理七でいわれていることが,現実的に存在する人間の能動actioによって果たされるとき,それは人間の自由といわれることになります。ただし第三部定理七は,人間が能動的である場合にだけ適用されるというわけではなく,人間が受動的である場合にも適用されなければなりません。このゆえに,徳はコナトゥスの一部であったとしてもコナトゥスそのものと等置することができるわけではなくて,コナトゥスは徳よりも広くわたると解さなければなりません。
 浅野はこの第三部定理七が,現実的にひとりの人間が存在するというだけでは,コナトゥスが発揮されるためには十分でないという意味を含んでいると指摘しています。他面からいえば,複数の人間が現実的に存在するとしても,あるひとりの人間がその他から孤立しているならば,その人間がコナトゥスを発揮するためには十分ではないといっているのです。
 浅野はこのことの根拠を,スピノザがこの定理Propositioを証明するときの記述に訴求しています。スピノザはこの定理を証明するときに,各々の個物res singularisが単独であることをなそうとする傾向conatusにだけ言及しているのではなく,各々の個物がほかの個物と協働してあることをなそうとする傾向についても言及しているのです。浅野の見解opinioの是非は別として,少なくともスピノザは,現実的に存在するある個物Aが,別の個物Bと協働して何事かをなす傾向があるとすれば,それは個物Aのコナトゥスなのであるということについては肯定しているといわなければなりません。
 僕はこのことは,第二部定義七に訴求して理解するのが適切であると考えています。そこでいわれているように,スピノザの哲学でいわれている個物というのは,多数の個体が協同することによってある結果effectusに対して原因causaとなる場合のことも含まれているのです。ですからもし個物Aと個物Bが協同してある結果の原因となるなら,AとBはひとつの個物とみなされなければなりません。
コメント
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