スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ドーヴィル大賞&模範的公民

2022-08-29 19:21:04 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にフランスのドーヴィル競馬場で行われたドーヴィル大賞GⅡ芝2500m。
 ステイフーリッシュは外の方からゆっくりと上がっていき,1コーナーでは先頭に立って逃げるレース。出走した5頭が縦一列の隊形。向正面ではリードが1馬身半くらいに広がり,さらに3コーナーでは2馬身半くらいのリードに。直線の手前あたりから追われると,2番手を追走してきた馬が追ってきて,その馬とのマッチレース。競り負ける形で勝ち馬からおよそ1馬身4分の1差で2着でした。
 おそらく逃げることになるだろうと予測されましたので,展開は想定の通り。スタミナ面に不足がない馬ですので,早い段階でスパートするという,理想的な内容であったと思います。ヨーロッパはこの距離ではレベルが高いので,GⅡであってもステイフーリッシュよりも強い馬がいたということだったと思います。もっと長い距離のレースの方がよいのかもしれませんが,3着以下は離しているわけで,これだけ走ることができれば十分だと僕は思います。
 レース名はドーヴィル大賞と訳されていますので僕もそれに倣っていますが,ドーヴィルグランプリで十分に日本語として成立するのではないかと思います。

 三木の思想を検討するわけではないのですが,三木がスピノザを批判する文脈を解するときに必要ですので,三木の思想のうち観念的な意味でも実践的な意味でも公民を目指すという部分については,その内容をみておきます。正確にいえば,三木の思想のその部分を,浅野がどのように解釈しているのかをみておくことにします。
                                        
 三木は,国家Imperiumという概念notioは,個人という概念より普遍的でありかつ具体的であるといっています。なぜなら,個人というのは国家を構成する肢体であるからです。この関係において,国家は特殊である個人を要求し,個人は国家を離れて存在することができません。いうなれば国家は単なる普遍であるというわけではなく,普遍と特殊の綜合なのです。三木はこの点をヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの哲学に訴求します。ヘーゲルによれば,国家は普遍的意志と特殊的意志という,相対するものの統一なのです。これはヘーゲルの弁証法そのものだといえるでしょう。よって三木は,真の普遍というのは具体的普遍である,つまり特殊と普遍の綜合であるような普遍であると結論し,特殊は普遍の分化であり発展なので,それぞれは普遍的な精神,これは実質的に国家のことを意味しますが,それによって生かされているということになるのです。
 ここにはスピノザの哲学からみたときには否定されるべき内容が多く含まれているのですが,そうしたことについては後でまとめて論じることにします。浅野によれば,上述のようなことを理解しているような個人が,ヘーゲルが望んでいた公民の模範的な姿であり,そうした公民に担われることによって,ヘーゲル自身の国家の目的が現実的なものとなるのです。三木の思想の中には,全体主義を批判しようとする姿勢はみえるのですが,全体主義的国家を包括的に批判する視点がないことの理由を,浅野はこの点に求めています。だから三木は全体主義的国家であった,日中戦争から第二次世界大戦へと向かった当時の日本を批判するような姿勢をもち得なかったのです。
 これは,三木の究極的関心は,理念上の闘争にあったからだと浅野はいっています。それが三木が若い頃からの一貫した姿勢だと浅野はみているのです。
コメント
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