スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ジャックルマロワ賞&形而上学的基礎

2022-08-15 19:12:47 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にフランスのドーヴィル競馬場で行われたジャックルマロワ賞GⅠ芝1600m。
 バスラットレオンは発馬直後にすぐにハナへ。外埒の方へ寄せていきました。ほかの馬はそれほど外には寄ってこなかったので,どれくらいの差があったのかは分かりづらいのですが,概ね1馬身くらいのリードで後続を引っ張っていたのではないかと思います。追い出しに入ってからは伸びを欠き,最後は一杯となって勝ち馬からおよさ7馬身4分の3差で7着でした。
 ほかの馬が外に寄ってこなかったことから,コース取りが適切であったのかどうかは疑問が残りますが,それでもこの差ですからそれを敗因とすることはできないでしょう。やはり能力に差があったとみるべきだと思います。全体的にいうと,斤量に恵まれている3歳馬のうちの3頭が上位を独占し,その3頭で4着以下を離していますので,コースなりペースなりが,軽量の馬に有利なレースだったといえそうです。

 スピノザの哲学であろうとデカルトRené Descartesの哲学であろうと,ある人間の精神mens humanaとその人間の身体humanum corpusが,実在的にrealiter区別されるという点では変わりはありません。正確にいうと,デカルトのような仕方で人間の精神と人間の身体を区別するなら,その区別distinguereはスピノザの哲学に基づく限り実在的区別といわれなければなりません。ホッブズThomas Hobbesの政治論がデカルトの哲学を形而上学的要素として利用していると解釈するとき,重要な点はその先にあります。デカルトは,人間の精神とその人間の身体は実在的に区別されるとしているのですが,その両者にはある関係があるということを肯定するのです。
                                        
 この関係というのは因果関係を意味します。つまりデカルトは,ある人間の身体は,その人間の精神を何らかの思惟作用に決定するdeterminareことができると解していて,それと同時に,ある人間の精神はその人間の身体を何らかの運動motusないしは静止quiesに決定することができると解しているのです。そしてデカルトの哲学によれば,現実的に存在する人間は,常にそのどちらかの状態にあって,その状態の下で思惟作用であれ運動ないしは静止であれ,諸々の作用や行動をなすのです。いい換えれば現実的に存在する人間は,精神が身体を行動ないしは作用に決定しているか,そうでなければ身体が精神を行動ないしは作用に決定しているかのどちらかの状態で存在しているということになります。
 もしある人間の身体が,その人間の精神を何らかの思惟作用に決定しているならば,身体は能動actioの状態にあり精神は受動passioの状態にあります。それとは逆に人間の精神がその人間の身体を運動あるいは静止に決定しているときには,精神は能動という状態であって身体は受動の状態にあります。要するにデカルトの哲学では,精神の能動は身体の受動を意味し,精神の受動は身体の能動を意味します。そして常にそのどちらかの状態,つまり精神が能動状態にあるか,そうでなければ身体が能動状態にあるかのどちらかの状態で,人間は現実的に存在するということになります。
 『スピノザ〈触発の思考〉』から理解する限り,ホッブズの政治論の基礎となっている形而上学は,この点にあると解するのが妥当です。
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