三四郎を誘惑した美禰子の目的は,文字通りに三四郎を誘惑するためではなく,三四郎を誘惑しているということを野々宮に見せることにあったというのが,『漱石と三人の読者』における石原千秋の読解です。この読解が成立するためには,確かにその場面を野々宮が目撃していたのでなければなりません。なぜそれがいえるのかということを説明します。
三四郎は橋の反対側から,美禰子と看護師を見ました。このときふたりは丘の上にいたと書かれています。浅野の読解によれば,丘の下の方に野々宮がいて,美禰子は野々宮と話をしていたのです。おそらくこのとき,美禰子は野々宮に手紙を渡しました。ところが野々宮は丘の下側にいたので,三四郎の位置からは見えなかったのです。
この後で美禰子は橋を渡って三四郎の近くを通り過ぎました。誘惑,正確にいえば見せかけの誘惑があったのはこのときです。そしてその後で野々宮が橋を渡り,三四郎を見つけました。このとき野々宮は三四郎に対して,まだいたのか,という主旨のことを言っていますが,これは三四郎から野々宮が見えていなかったように,野々宮からは三四郎が見えていなかったためで,実際に三四郎の姿を目撃するまで,野々宮は三四郎がそこにいたことを知らなかったのです。
三四郎はおそらく美禰子が野々宮と話をしていたということには気付かなかったのでしょう。一方で野々宮は,自分が美禰子と話をしているところを三四郎は目撃していたと勘違いしていたのだと思われます。つまり野々宮は,自分が三四郎がいたということに気付いていなかっただけで,三四郎の方は気付いていたというように思い込んだのです。美禰子はおそらくこのときに野々宮に手紙を渡したのですが,自分が美禰子から手紙を受け取ったことも三四郎は見ていたというように野々宮は思っていたのでしょう。だから野々宮は,ポケットからはみ出していた封筒を隠そうとはしなかったのです。すべてを目撃していた三四郎に隠すことは無意味だからです。一方で三四郎は,女の筆跡ということは理解しましたが,それが美禰子によるものだとは,この時点では気付いていなかったと思われます。よってこの箇所では,三四郎と野々宮の間にも,ある種のすれ違いがあったと読解できるのです。
人間についての自由libertasを共同性の下で考えることは,第四部公理とか第四部定理三に反するようにみえるかもしれませんが,前述しておいたようにそんなことはありません。これらの公理Axiomaや定理Propositioは,たとえばあるひとりの人間が,その他の人間との共同性の下で生活しているときに,その他の人間からは不都合な変化,いい換えれば自身の本性essentiaの力potentiaの発揮を阻害する変化だけを受けるということを意味しているわけではないからです。もちろんある人間がほかの人間からそのような変化を受けるということはあり得るといわなければなりませんし,それは現にあるというべきでしょう。しかしそれとは逆に,自身にとって都合の良い変化,つまり自身の本性の力の発揮を促進するような変化を受けるということもあり得るし,現にあるといわなければならないからです。そしてこの本性の力の発揮が自由の原点であるとすれば,確かに人間はほかの人間との共同性の下で,自由を阻害されることもあるでしょうが,自由が促進される,より自由になるという場合もあるのです。
浅野はこうした自由を形作るための精神mensの力が理性ratioであるといっています。要するに,自らの自由を阻害する受動passioと,自らの自由を促進する受動とを選別するような精神の力が理性であると指摘しているのです。このために,理性は自由と関係することになります。この点については僕の方からさらに指摘しておきたいことがあります。
『エチカ』が示している倫理の規準というのは,能動actioと受動にあります。これは第四部定義八で徳virtutemといわれていることが,人間の能動と実質的に等置されていることから明白だといわなければなりません。このとき,理性というのは精神の能動actio Mentisを意味するので,それ自体が徳であることになります。つまり理性を用いるということは,それ自体が徳であって,倫理的なことになります。よって理性を用いるということはそれ自体が倫理の目的となるのです。しかし浅野の指摘によれば,理性はそれ自体が倫理の目的であると同時に,その手段でもあることになります。なぜなら,理性を用いることによって自由の阻害と促進を選別するのですが,それもまた倫理の規準になり得るからです。
三四郎は橋の反対側から,美禰子と看護師を見ました。このときふたりは丘の上にいたと書かれています。浅野の読解によれば,丘の下の方に野々宮がいて,美禰子は野々宮と話をしていたのです。おそらくこのとき,美禰子は野々宮に手紙を渡しました。ところが野々宮は丘の下側にいたので,三四郎の位置からは見えなかったのです。
この後で美禰子は橋を渡って三四郎の近くを通り過ぎました。誘惑,正確にいえば見せかけの誘惑があったのはこのときです。そしてその後で野々宮が橋を渡り,三四郎を見つけました。このとき野々宮は三四郎に対して,まだいたのか,という主旨のことを言っていますが,これは三四郎から野々宮が見えていなかったように,野々宮からは三四郎が見えていなかったためで,実際に三四郎の姿を目撃するまで,野々宮は三四郎がそこにいたことを知らなかったのです。
三四郎はおそらく美禰子が野々宮と話をしていたということには気付かなかったのでしょう。一方で野々宮は,自分が美禰子と話をしているところを三四郎は目撃していたと勘違いしていたのだと思われます。つまり野々宮は,自分が三四郎がいたということに気付いていなかっただけで,三四郎の方は気付いていたというように思い込んだのです。美禰子はおそらくこのときに野々宮に手紙を渡したのですが,自分が美禰子から手紙を受け取ったことも三四郎は見ていたというように野々宮は思っていたのでしょう。だから野々宮は,ポケットからはみ出していた封筒を隠そうとはしなかったのです。すべてを目撃していた三四郎に隠すことは無意味だからです。一方で三四郎は,女の筆跡ということは理解しましたが,それが美禰子によるものだとは,この時点では気付いていなかったと思われます。よってこの箇所では,三四郎と野々宮の間にも,ある種のすれ違いがあったと読解できるのです。
人間についての自由libertasを共同性の下で考えることは,第四部公理とか第四部定理三に反するようにみえるかもしれませんが,前述しておいたようにそんなことはありません。これらの公理Axiomaや定理Propositioは,たとえばあるひとりの人間が,その他の人間との共同性の下で生活しているときに,その他の人間からは不都合な変化,いい換えれば自身の本性essentiaの力potentiaの発揮を阻害する変化だけを受けるということを意味しているわけではないからです。もちろんある人間がほかの人間からそのような変化を受けるということはあり得るといわなければなりませんし,それは現にあるというべきでしょう。しかしそれとは逆に,自身にとって都合の良い変化,つまり自身の本性の力の発揮を促進するような変化を受けるということもあり得るし,現にあるといわなければならないからです。そしてこの本性の力の発揮が自由の原点であるとすれば,確かに人間はほかの人間との共同性の下で,自由を阻害されることもあるでしょうが,自由が促進される,より自由になるという場合もあるのです。
浅野はこうした自由を形作るための精神mensの力が理性ratioであるといっています。要するに,自らの自由を阻害する受動passioと,自らの自由を促進する受動とを選別するような精神の力が理性であると指摘しているのです。このために,理性は自由と関係することになります。この点については僕の方からさらに指摘しておきたいことがあります。
『エチカ』が示している倫理の規準というのは,能動actioと受動にあります。これは第四部定義八で徳virtutemといわれていることが,人間の能動と実質的に等置されていることから明白だといわなければなりません。このとき,理性というのは精神の能動actio Mentisを意味するので,それ自体が徳であることになります。つまり理性を用いるということは,それ自体が徳であって,倫理的なことになります。よって理性を用いるということはそれ自体が倫理の目的となるのです。しかし浅野の指摘によれば,理性はそれ自体が倫理の目的であると同時に,その手段でもあることになります。なぜなら,理性を用いることによって自由の阻害と促進を選別するのですが,それもまた倫理の規準になり得るからです。