カーンの雑感⑩の最後にいったように,カーンはギャラの問題から長州力を相手にするようになりました。要するに日本人の軍団が多くなれば,興行のために外国人選手を呼ぶ必要がなくなる,あるいはなくならないとしても必要になる選手が減るので,その分のギャラが自分たちに回ってくるようになるとカーンは考えていたことになります。カーンによればこの当時の外国人選手は待遇の面で明らかに優遇されていたようです。
実際には全日本プロレスの外国人選手との契約は,年間契約になっていたと思われますので,すぐにカーンの希望が叶うことは物理的に無理であったと思いますし,実際にそうでした。ただカーンはこの外国人選手に対する優遇は,日本プロレス界の問題であったというようにいっています。つまり,全日本プロレスに特有のことではなく,新日本プロレスでも同様だったと考えています。当時は全日本プロレスの方が新日本プロレスよりも多くの外国人選手をブッキングしていましたので,全日本プロレスの方がそういう影響は大きかったのではないかと僕は思いますが,新日本プロレスも古くは黒い呪術師,そしてカーンが全日本で仕事をするようになってからは超獣を全日本プロレスから引き抜いていますので,外国人への投資があったのは事実で,それが所属選手のギャラに影響したということはあったのだろうと思います。
これに関連して,カーンは新日本プロレスの時代は,どれほど観客が入ってもギャラはまったく上がらなかったといっています。カーンが新日本プロレスで仕事をしていた時代はおそらく新日本プロレスの黄金時代が含まれている筈で,その時代にもギャラは一定だったことになります。それどころか新日本プロレスは,ギャラから天引きして税金を払っているように見せかけ,実際には払われていなかったとも言っているのですが,これは事実であれば犯罪に類すると思いますので,真偽については僕からははっきりとしたことはいえません。さらに全日本に所属していた選手は厚生年金に加入していたのに対し,新日本に所属していた自身は厚生年金を受け取っていないとも言っています。
スピノザは『国家論Tractatus Politicus』の第二章第二〇節で,人間が理性ratioによって導かれ,欲望cupiditasを抑制できることが多ければ多いほど,人間の自由libertasは大きいという主旨のことをいっています。この点は,理性と自由を結びつけている浅野の見解opinioと一致しているといえるでしょう。そのことは僕も否定しません。むしろ浅野の指摘に同意します。ただし,これを理解するときには注意が必要です。

この部分はそのまま読むと,理性を用いることで欲望を抑制することができるということを前提しなければなりません。そのことは確かに可能なのですが,方法論としてはやや特異な面があります。というのは第三部諸感情の定義一によって欲望は感情affectusであって,第四部定理七によって,ある感情はそれと反対の強力な感情affectu fortiore, et contrarioによってしか抑制できないことになっているからです。理性は理性であって感情ではありませんから,スピノザの哲学では理性がそれ自体で感情を抑制するということはできません。理性が直接的に欲望を抑制することができるというのは,スピノザの哲学ではなくデカルトRené Descartesの哲学の基本路線なのであって,それをスピノザは否定しているのです。したがって,スピノザの哲学において理性によって欲望を抑制されるというのは,理性が直接的に欲望を抑制するのではなく,理性によって生じる感情が,欲望を抑制するという意味であるか,そうでなければ,第五部定理三でいわれているように,受動感情Affectus,qui passioが理性によって明瞭判然とsimulatque ejus claram認識されることによって,部分的にであれ受動であることをやめるという意味であるかのどちらかです。この点は重要なのでよく気を付けてください。
浅野はこの部分に関連して別の注意を与えています。
スピノザの哲学における理性というのは,合理性の構築と統制を行うポジションにはあるのですが,そのポジションを前もって確保しておくものではありません。たとえば建築家は建築する前に設計図を描きますが,理性はそのような設計図を描くような性質を備えてはいないのです。いい換えればスピノザの哲学における理性というのは,一般的な理性による統制という単一の原理に基づいて行使されるような思惟作用であるというわけではないのです。
実際には全日本プロレスの外国人選手との契約は,年間契約になっていたと思われますので,すぐにカーンの希望が叶うことは物理的に無理であったと思いますし,実際にそうでした。ただカーンはこの外国人選手に対する優遇は,日本プロレス界の問題であったというようにいっています。つまり,全日本プロレスに特有のことではなく,新日本プロレスでも同様だったと考えています。当時は全日本プロレスの方が新日本プロレスよりも多くの外国人選手をブッキングしていましたので,全日本プロレスの方がそういう影響は大きかったのではないかと僕は思いますが,新日本プロレスも古くは黒い呪術師,そしてカーンが全日本で仕事をするようになってからは超獣を全日本プロレスから引き抜いていますので,外国人への投資があったのは事実で,それが所属選手のギャラに影響したということはあったのだろうと思います。
これに関連して,カーンは新日本プロレスの時代は,どれほど観客が入ってもギャラはまったく上がらなかったといっています。カーンが新日本プロレスで仕事をしていた時代はおそらく新日本プロレスの黄金時代が含まれている筈で,その時代にもギャラは一定だったことになります。それどころか新日本プロレスは,ギャラから天引きして税金を払っているように見せかけ,実際には払われていなかったとも言っているのですが,これは事実であれば犯罪に類すると思いますので,真偽については僕からははっきりとしたことはいえません。さらに全日本に所属していた選手は厚生年金に加入していたのに対し,新日本に所属していた自身は厚生年金を受け取っていないとも言っています。
スピノザは『国家論Tractatus Politicus』の第二章第二〇節で,人間が理性ratioによって導かれ,欲望cupiditasを抑制できることが多ければ多いほど,人間の自由libertasは大きいという主旨のことをいっています。この点は,理性と自由を結びつけている浅野の見解opinioと一致しているといえるでしょう。そのことは僕も否定しません。むしろ浅野の指摘に同意します。ただし,これを理解するときには注意が必要です。

この部分はそのまま読むと,理性を用いることで欲望を抑制することができるということを前提しなければなりません。そのことは確かに可能なのですが,方法論としてはやや特異な面があります。というのは第三部諸感情の定義一によって欲望は感情affectusであって,第四部定理七によって,ある感情はそれと反対の強力な感情affectu fortiore, et contrarioによってしか抑制できないことになっているからです。理性は理性であって感情ではありませんから,スピノザの哲学では理性がそれ自体で感情を抑制するということはできません。理性が直接的に欲望を抑制することができるというのは,スピノザの哲学ではなくデカルトRené Descartesの哲学の基本路線なのであって,それをスピノザは否定しているのです。したがって,スピノザの哲学において理性によって欲望を抑制されるというのは,理性が直接的に欲望を抑制するのではなく,理性によって生じる感情が,欲望を抑制するという意味であるか,そうでなければ,第五部定理三でいわれているように,受動感情Affectus,qui passioが理性によって明瞭判然とsimulatque ejus claram認識されることによって,部分的にであれ受動であることをやめるという意味であるかのどちらかです。この点は重要なのでよく気を付けてください。
浅野はこの部分に関連して別の注意を与えています。
スピノザの哲学における理性というのは,合理性の構築と統制を行うポジションにはあるのですが,そのポジションを前もって確保しておくものではありません。たとえば建築家は建築する前に設計図を描きますが,理性はそのような設計図を描くような性質を備えてはいないのです。いい換えればスピノザの哲学における理性というのは,一般的な理性による統制という単一の原理に基づいて行使されるような思惟作用であるというわけではないのです。