スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯白玲戦&三木の批判

2022-08-30 19:18:34 | 将棋
 27日に台場で指された第2期白玲戦七番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳白玲が20勝,里見香奈女流五冠が21勝。これはNHK杯の予選を含んでいます。
 ヒューリックの会長による振駒で里見五冠の先手で中飛車。後手の西山白玲が三間飛車で相振飛車。この将棋は中盤で後手がかなりリードしていたように思えます。
                                        
 後の手順からするとたぶんここが後手にとって最後のチャンス。おそらくすぐに☖6六歩と打って飛車交換を狙うのがよかったのではないかと思います。もちろん☗同飛なら☖7七飛成です。
 実戦は☖7六飛と逃げ,☗9五歩に☖6六歩と打ちました。この交換が先手にとってかなりプラスになっているのでしょう。先手は☗6八飛と逃げ☖7四飛の角取りを無視して☗9四歩と取り込みました。
                                        
 この取り込みが大きく,ここでは逆転して先手がよくなっていると思います。後手としては勝たなければいけないような将棋だったように思えますので,先手にとって大きな逆転勝ちといえるでしょう。
 里見五冠が先勝。第二局は来月3日に指される予定です。

 三木の究極的関心が理念上の闘争にあったということは,三木が観念ideaだけでなく実践も重視していたということと矛盾するわけではありません。模範的公民であるということは三木の実践のひとつなのであって,そのこと自体が理念的闘争と不可分の関係にあったからです。他面からいえば,三木は模範的公民であることを実践するために,理念上の闘争に身を投じたというように解することも可能だと思います。
 とはいえこのような理念的な闘争には,そこから抜け落ちてしまう部分というのも当然ながら出てくるでしょう。個人と国家Imperiumの抽象的な概念notioの相互の対立をいかに調停するのかという点だけに注力するなら,これらふたつの項は,互いに還元不可能な形で分裂してしまうか,そうでなければ何らかの形で和解に至るかという,どちらかの結論しかないからです。これは三木が問おうとしていたこと自体がそのどちらかの解答を要請しているのだといってもいいでしょう。そしてその解答のためにヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの弁証法を援用するのであれば,そこでは第三項が第一項の高次元での復帰なるのですから,国家は自由主義的な個人を否定しつつも活用する形で,個人との対立という段階からそれを統合する存在として,弁証法の過程で不可欠な統一体として登場してくることになるでしょう。三木はおそらくこの論法に忠実だったのであり,そのゆえに現実的に存在するどのような国家についても.弁証法の一過程の上で正当化することになるのです。浅野によれば,三木は国家体制の内側から抵抗することを目指したのだけれども挫折することになった思想家であったわけではなく,それ以前の問題として模範的な公民であることに徹しようとしていたのだということとなるのです。
 このようなヘーゲルの弁証法に基づいた国家観から,三木はスピノザのことを批判しています。三木によれば,スピノザは社会societasという概念と国家という概念を厳密に区分していません。さらにスピノザには弁証法が欠けているので,ヘーゲルのように客観精神と絶対精神absoluter Geistとを区別する道が存在しなかったのです。
 僕は三木がスピノザに対していっていること自体は,とても的確で正しいと思います。
コメント
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