スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

作為の理由&未知のウイルス

2020-11-21 18:52:52 | 歌・小説
 ドゥーニャピストルの銃口をスヴィドリガイロフに向けた後のふたりの会話は,小説として作為的であるという指摘が『『罪と罰』を読まない』の中で指摘されています。これはその通りなのですが,こうした作為が発生してしまうのには理由があると僕は思いますので,その点を説明しておきましょう。
                                        
 まず『罪と罰』というのは,エピローグの部分を除くときわめて短い時間の中で繰り広げられる物語です。長編の小説であり,様ざまな出来事がそこで発生するのですが,それらはすべておよそ二週間ほどのうちに起きたことです。つまり小説の中にはきわめて濃密な時間が流れているのです。よって,ドゥーニャがスヴィドリガイロフの,あるいはドゥーニャ自身の意識でいえば,スヴィドリガイロフの妻のマルファのピストルを盗んでいたという過去の出来事は,このような仕方でしか示すことができなかったという面があります。これは小説内の時間経過を濃密にするための作為であったといえるでしょう。
 そしてもうひとつ,『罪と罰』というのは,雑誌の連載小説でした。そしてこの連載が始まった時点で,ドストエフスキーは小説の全体を書き終えていたわけではなかったのです。つまり実際の読者がこの小説を読み始めた時点では,小説の全体が完成していたわけではなく,その時点でもまだ小説は書き続けられていました。よって,たとえば小説の後半部分に入った時点で,この出来事については何らかの伏線を事前に示しておいた方がよかったとドストエフスキーが考えたとしても,もうすでに連載されてしまった部分にそれを書き足すということはできませんでした。これは『罪と罰』に限らず,このような形で部分的に連載されるような小説については一様にいえることですが,こうした小説そのものには,こういった物理的な理由による作為とか破綻というのが生じやすくなっているのです。夏目漱石の『こころ』の破綻も,それが新聞小説であったがゆえに生じた破綻であったとみることができます。それと同じように,『罪と罰』の作為も,それが雑誌の連載小説であったがゆえに生じた作為だったとみることができるのです。

 もしこの当時の日本の政府の判断の下に,未知のウイルスを規定するなら,おそらく今後も未知のウイルスが存在するということはありません。他面からいえば,未知のウイルスについての法律を適用する機会は訪れません。これは次のように説明することができます。
 何らかのウイルスによる感染が疑われるような感染症が,多くの人びとの間で流行したと仮定します。しかしこの段階では,あくまでも疑いなのであって,それがウイルス性の感染症であると決定することはできません。つまり未知であるか未知でないかをいう前に,ウイルスであるか否かが分からないのですから,ウイルスを対象とした法律が適用できる筈はありません。これは自明の理だと思います。
 それが確実にウイルス性の感染症であるということが判明するのは,そのウイルスが発見された後のことになります。しかしもしもそのウイルスが発見されたのであれば,同時にそのウイルスの組織の結合も発見されるということになるでしょう。そこでもしそれが発見されれば,それはウイルスではあっても未知のものではないというなら,未知のウイルスは人間にとって存在することが不可能だといわなければなりません。段階でいえば,ウイルスであるか否かが未知の状態があって,その後に未知ではない,あるいは同じことですが既知のウイルスであるという段階に移行するからです。
 もしも未知のウイルスというのをこのように規定しなければならないのであれば,未知のウイルスについて定められた法律に欠陥があることになります。その法律はその法律の下に生活する人びとに対して,一切の影響を与えることが不可能だということになるからです。ですからもしもこうした立場を採用するのであれば,その法律の条文を改正することに向けた努力をするべきでしょう。
 僕は法律は条文を柔軟に解釈するべきだと考えます。上述のように未知のウイルスを規定すれば,その法律は何の意味もないことは明らかですから,もしその組織構造が判明していたとしても,そのウイルスに対する効果的な予防法や医学療法が不明であれば,そのウイルスは未知のウイルスだと解釈するべきだと考えます。
コメント
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