12日と13日に掛川城二の丸茶室で指された第69期王将戦七番勝負第一局。対戦成績は渡辺明王将が15勝,広瀬章人八段が11勝。
掛川市長による振駒で渡辺王将の先手。相矢倉で先手の早囲いに対して後手の広瀬八段が急戦を仕掛けていく将棋。後手に目立った緩手は見受けられない将棋で,結果的にいうと玉の自由度というか広さに優っていた先手が終始リードしていたということになるのではないでしょうか。最後は先手がうまく決めました。
7筋と8筋で金と桂馬の交換がそれぞれされた局面。ここで後手は☖5四桂と角取りに打ちました。
先手は☗7四桂と飛車取りに打ち返し☖9二飛とさせてから☗6八角と逃げました。攻め続けなければならない後手は☖5八銀。
これに対して☗5九銀と引いて受けた手が決め手になったようです。後手は☖同銀不成☗同飛☖4八銀☗2九飛☖5六歩と攻めを継続しましたが,そこで☗6三銀が厳しい一手。
まだ逃げ場所のある先手玉とそれがない後手玉の差が大きく,ここは先手の勝勢になっています。
渡辺王将が先勝。第二局は25日と26日です。
第一部定理二一は,神Deusのある属性attributumの絶対的本性から生じるものについて証明しようとしています。たとえば思惟の属性Cogitationis attributumの絶対的本性とか,延長の属性Extensionis attributumの絶対的本性から生じるものについて証明しようとしているのです。これに対して第二の証明の末尾の部分でスピノザは,神の絶対的本性から神の属性の中に必然的にnecessario生起するものについて言及しています。つまり神の絶対的本性から思惟の属性や延長の属性の中に必然的に生起するものについて言及しようとしているのです。
まず考えなければならないのは,神の絶対的本性から生じるものというのが,具体的に何を示しているのかということです。秋保はこれについては何もいっていませんが,『エチカ』の中から何か根拠を見出そうとするなら,それは第一部定理一六を援用するのがよいように思えます。そこでは神の本性の必然性necessitate divinae naturaeから生じるものについて言及されているからです。もちろん,単に神の本性といわれるのと,神の絶対的本性といわれる場合とでは,意味が異なると考えるべきではあるでしょう。しかし,神の本性から何かが必然的に生起するのであるとすれば,神が存在しさえすればその何かは必然的に存在しなければなりません。これは第一部公理三から明白だといわなければなりません。そして第一部定理一一により,神は必然的に存在するのですから,その何かは必然的に存在することになるのです。よって,神の絶対的本性から生起するといわれる場合と,神の本性から生起するといわれる場合の相違は,ここではさほど気にしなくてよいのではないかと思えます。
ではこの定理Propositioで何が神の本性の必然性から生じるといわれているのかといえば,無限に多くのinfinitaものなのです。つまり神の絶対的本性からは無限に多くのものが生起すると解することが可能なのです。そしてそれら無限に多くのものは,無限に多くの仕方で生じるといわれています。この無限に多くの仕方というのは,第一部定義六でいわれている,無限に多くの属性のことを意味していると考えられます。ですから,神の絶対的本性から,無限に多くの属性の各々のうちに,無限に多くのものが必然的に生起すると解しておくことにします。
掛川市長による振駒で渡辺王将の先手。相矢倉で先手の早囲いに対して後手の広瀬八段が急戦を仕掛けていく将棋。後手に目立った緩手は見受けられない将棋で,結果的にいうと玉の自由度というか広さに優っていた先手が終始リードしていたということになるのではないでしょうか。最後は先手がうまく決めました。
7筋と8筋で金と桂馬の交換がそれぞれされた局面。ここで後手は☖5四桂と角取りに打ちました。
先手は☗7四桂と飛車取りに打ち返し☖9二飛とさせてから☗6八角と逃げました。攻め続けなければならない後手は☖5八銀。
これに対して☗5九銀と引いて受けた手が決め手になったようです。後手は☖同銀不成☗同飛☖4八銀☗2九飛☖5六歩と攻めを継続しましたが,そこで☗6三銀が厳しい一手。
まだ逃げ場所のある先手玉とそれがない後手玉の差が大きく,ここは先手の勝勢になっています。
渡辺王将が先勝。第二局は25日と26日です。
第一部定理二一は,神Deusのある属性attributumの絶対的本性から生じるものについて証明しようとしています。たとえば思惟の属性Cogitationis attributumの絶対的本性とか,延長の属性Extensionis attributumの絶対的本性から生じるものについて証明しようとしているのです。これに対して第二の証明の末尾の部分でスピノザは,神の絶対的本性から神の属性の中に必然的にnecessario生起するものについて言及しています。つまり神の絶対的本性から思惟の属性や延長の属性の中に必然的に生起するものについて言及しようとしているのです。
まず考えなければならないのは,神の絶対的本性から生じるものというのが,具体的に何を示しているのかということです。秋保はこれについては何もいっていませんが,『エチカ』の中から何か根拠を見出そうとするなら,それは第一部定理一六を援用するのがよいように思えます。そこでは神の本性の必然性necessitate divinae naturaeから生じるものについて言及されているからです。もちろん,単に神の本性といわれるのと,神の絶対的本性といわれる場合とでは,意味が異なると考えるべきではあるでしょう。しかし,神の本性から何かが必然的に生起するのであるとすれば,神が存在しさえすればその何かは必然的に存在しなければなりません。これは第一部公理三から明白だといわなければなりません。そして第一部定理一一により,神は必然的に存在するのですから,その何かは必然的に存在することになるのです。よって,神の絶対的本性から生起するといわれる場合と,神の本性から生起するといわれる場合の相違は,ここではさほど気にしなくてよいのではないかと思えます。
ではこの定理Propositioで何が神の本性の必然性から生じるといわれているのかといえば,無限に多くのinfinitaものなのです。つまり神の絶対的本性からは無限に多くのものが生起すると解することが可能なのです。そしてそれら無限に多くのものは,無限に多くの仕方で生じるといわれています。この無限に多くの仕方というのは,第一部定義六でいわれている,無限に多くの属性のことを意味していると考えられます。ですから,神の絶対的本性から,無限に多くの属性の各々のうちに,無限に多くのものが必然的に生起すると解しておくことにします。