スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

おまえの家①&方法の差異

2020-01-10 19:09:46 | 歌・小説
 「愛していると云ってくれ」というアルバムは「怜子」が2曲目で「わかれうた」が3曲目。「化粧」は5曲目で「あほう鳥」が7曲目です。このアルバムには9曲が収録されていますが,「あほう鳥」のすぐ後の8曲目は「おまえの家」という曲で,これは名曲というのとはちょっと違う気もしますが,なかなかいい曲だと思っています。
                                   
 とても多くの歌詞で成り立っている歌なのですが,なかなかいい曲だということを説明するのにはたぶんそのすべてが必要とされます。ですから冒頭からいきます。

     雨もあがったことだし おまえの家でも
     ふっとたずねて みたくなった
     けれど おまえの家は なんだかどこかが
     しばらく 見ないまに 変わったみたい


 この曲の歌い手は,雨の日に仕事で外回りをしていました。その雨があがり,近くに「おまえ」と歌われているかつての友人の家があったので,思い立ってそこを急に訪問したのです。以前に来たことがあって,しかししばらくは来ていなかった家だったということは歌詞から分かります。

     前には とても おまえが聞かなかった 音楽が
     投げつけるみたいに 鳴り続けていたし
     何より ドアをあけるおまえが なんだかと
     言いかけて おまえもね と言われそうで黙りこんだ


 音楽は歌い手と「おまえ」を結び付けた共通の趣味です。ですが「おまえ」は,以前だったら絶対に聴かなかったような音楽を,聴くというわけでもなく垂れ流していました。そしてドアを開けた「おまえ」は,以前とずいぶん変わっているように思えました。しかし同時に,自分も変わっているということに,歌い手は自覚的だったのです。

 原因causaによって自己原因causa suiを規定づけると,さらに次のような論理が必要になります。
 もし神Deusが万物の原因であることを認めるのであれば,万物の原因であるという意味での原因によって,自己原因の原因性が規定されらることになります。ここでは仮定的な表現を用いましたが,実際には神を万物の原因とは認めないということは,神を自己原因と規定するのと同じくらい,あるいはそれ以上に神学からの反撥を招くでしょうから,スピノザの時代にあってはそれは仮定ではなく現実であったといわねばなりません。よって,神を原因として発生する結果effectusによって,神を推し量る必要が生じます。つまり,自己原因と原因の関係性をスピノザとは逆方向に把握すると,結果の観念ideaから原因の観念へと訴求していく必要性が生じることになります。たとえばデカルトRené Descartesの思考のモデルというのを分析していけば,そのようになっているということができます。デカルトが思考の基礎として最も確実である事柄として措定しているのは,「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」ということ,いい換えれば思考している自分自身あるいは思考している自分の精神mensが存在するということは絶対に疑い得ないことであるという点にあるからです。神が存在するということを論証する規準になるのも,このことなのです。ですから,デカルトの哲学では第一部公理四のような内容が,厳密な意味で成立しているとはいい難い面があります。少なくともスピノザの哲学ではこの公理Axiomaが成立する以上,論証Demonstratioの方法は必ず原因から結果を導き出していく方法,すなわち演繹法でなければなりません。ですがデカルトの哲学の場合では,これとは異なった方法,すなわち帰納法が,少なくとも部分的には必要になることになります。
 第二の証明でスピノザが原因ないしは理由といったとき,デカルト的なモデルに対する批判的精神をそこに込めていたということはできないかもしれません。ですがスピノザがそういう批判的精神を有していたことは確実です。単に原因といわず理由ないしは原因というのには,そうしたことをもデカルト的なモデルを支持する人びとに分からせようという意図が働いていたのではないでしょうか。
コメント
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