スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

鳳凰賞典レース&第一部定理二五備考の意味

2020-01-07 19:00:09 | 競輪
 立川記念の決勝。並びは吉田‐諸橋の関東に福田,平原‐河村‐朝倉の埼京,佐々木豪‐清水の四国中国に佐々木雄一。
 諸橋がスタートを取って吉田の前受け。4番手に平原,7番手に佐々木豪で周回。残り3周の最終コーナーから佐々木豪が上昇開始。ホームに入って平原も動きました。3つのラインが折り重なるようにホームを通過して誘導が退避。大外の佐々木豪が前に出ると瞬間的に清水は離れましたが,バックで追いつきそのまま佐々木豪の先行で打鐘。4番手に平原,7番手に吉田の一列棒状に。引いた吉田はまったく動けず,最終周回のバックから清水が番手捲り。これに乗った平原が直線勝負に出ましたが届かず,優勝は清水。平原が4分の1車輪差で2着。平原マークの河村が1車輪差で3着。清水マークの佐々木雄一はつきバテのような形で半車身差の4着。
 優勝した山口の清水裕友選手は11月の防府記念以来となる記念競輪4勝目。立川記念は昨年に続く連覇で2勝目。このレースは清水と平原の力が上。ふたりともグランプリに乗っていて,当然ながらそこを目標に仕上げていたでしょうから,余力がどれほど残っているかは心配でしたが,結果的にこのメンバーであれば問題がなかったということでしょう。今日は佐々木豪が先行してくれた分だけ,清水には有利となりました。今年はビッグの制覇が期待されます。レース全体でいえば,地元勢の邪魔はできないということはあったにせよ,吉田はあまりに無策だったように思えます。

 再確認したことから分かるのは,スピノザの哲学の本来的な意味に鑑みれば,そこには理由といわれなければならない要素は一切なく,単に原因causaといっておけばそれですむということです。それなのにスピノザが理由ないしは原因とか原因ないしは理由といういい方をこの箇所で連発しているのはなぜなのかを秋保は解明しています。
                                        
 存在する原因はそれ自身のうちにあるかそれとも外にあるかのどちらかです。このとき,その原因がうちにあるというのは,そのものの本性essentiaのうちにそのものの存在existentiaが含まれているということを意味します。『エチカ』ではそうしたものが最初に定義Definitioの対象になっています。すなわち第一部定義一により,そうしたものは自己原因causam suiといわれるのです。
 したがってスピノザの哲学では,この自己原因というのは起成原因causa efficiensのひとつを構成します。いい換えれば自己原因とは自己の起成原因にほかなりません。とりわけこのことは,スピノザの哲学において自己原因と原因,これは自己の外部の起成原因という意味での原因ですが,そのふたつがどのような関係性をもっているのかという点から重要です。第一部定理二五備考でいわれているように,神Deusは自己原因であるといわれる意味において万物omnium rerumの原因なのです。それとは逆に,神が万物の原因といわれる意味において自己原因であるのではないのです。よって,外部の原因がいかなるものであるのかによって自己原因とはいかなるものであるのかということが規定されるのではありません。自己原因がいかなるものであるのかによって外部の原因がいかなるものであるのかということが決定されるのです。したがって,外部の原因というのが起成原因であるのでなければならない以上は,自己原因もまた起成原因であるといわれなければなりません。もしも自己原因を起成原因とは認めないというのであれば,外部の原因もまた起成原因と認めることができなくなってしまうからです。
 ところが,スピノザの時代には,自己原因を起成原因のひとつとして是認するということは主流ではありませんでした。これは自己原因を起成原因と認めてしまうと,神学との間の論争が避けられなかったからです。
コメント
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