11日と12日にセルリアンタワー能楽堂で指された第32期竜王戦七番勝負第一局。対戦成績は広瀬章人竜王が8勝,豊島将之名人が7勝。
野村ホールディングス執行役員による振駒で豊島名人が先手となり角換り相腰掛銀。封じ手後に先手の飛車が下段を行ったり来たりしたのは後手の得で,僕はそのあたりは後手の広瀬竜王の方がいいのではないかと思っていました。
先手が2筋を狙って香車を打った局面。ここが重要な分岐だったようです。
実戦は☖8六とと金取りに引きました。これがあまりよくなく,一旦は☖8八馬と入り,後で☖7七ととした方がよかったようです。
実戦は☗2三歩成とし,☖7六とに☗同歩と取りました。これが先手の好手順でした。さらに☖2三金☗同香成☖8五銀のとき,7六の地点を下から支えるのではなく☗7五桂と上から受けるのがまた好手。☖7六銀とされて損のように思えるのですがそこで☗8三桂成としておくのがよい手で,☗7二歩を避ける☖7五飛に☗3二成香と入ったところで先手の攻め脚が早くなっています。
第2図から☖8二歩☗8四成桂と進めたのも,後手にとっては損だったかもしれません。ですが第2図ではどうも先手が優位に立っているようです。
豊島名人が先勝。第二局は23日と24日です。
僕はここまで,虚偽falsitasが虚偽であるという認識cognitioが含まれているなら,その虚偽を肯定する意志作用volitioは,十全adaequatumなるものを十全なるものとして肯定する意志作用と同じだけの力potentiaを有し,その認識が含まれていなければそれはあたかも力とは反対の意味で無力impotentiaであるかのように説明してきました。これはここでの僕の論旨を分かりやすくするための方法なのであって,実際には虚偽が虚偽であるという認識が含まれていない場合,つまり誤謬errorを犯している場合でも,それが正確な意味で無力であると把握するのは誤りであると僕は考えています。最後に説明しておきたいことというのはこのことです。
虚偽と誤謬の相違を,何度もいうように僕は第二部定理三五に依拠して解釈します。このとき,虚偽が虚偽であるという認識が含まれているか含まれていないかということとは関係なく,何らかの混乱した観念idea inadaequataがあるということは前提になります。そうでなければ虚偽すなわち混乱した観念を虚偽であると認識できるか否かということが問題となりようがないからです。このとき,それが虚偽であるか否かの認識の有無と関係なく,ただ単にあるものが混乱して認識されているという限りでは,この混乱した観念の形相formaは,その人間が誤謬を犯そうと犯すまいと同一です。こうした混乱した観念の形相が誤謬を犯す人間の精神mens humanaのうちに現実的に存在するということは,その人間の精神の力potentiaであると解するべきだと僕は考えます。ですから,第二部定理三五というのは,虚偽が虚偽であるという認識の欠乏privatioに関してのみ言及されているので,この場合にはこの欠乏は完全なる欠如を意味します。ですが,ある人間の精神が誤謬を犯すということをその全体でみるとするなら,そこには混乱した認識は含まれているのですから,認識の欠乏は完全なる欠如というよりはある不足を意味することになります。もちろんその不足とは,その混乱した観念が混乱した観念であるという認識の不足であり,不足していない分の認識が,混乱した観念そのものの認識です。
つまり,誤謬というのは誤謬を犯す人間の精神の認識の全体という観点からは,無力というわけではなく,不足しているとはいえ力のひとつです。
野村ホールディングス執行役員による振駒で豊島名人が先手となり角換り相腰掛銀。封じ手後に先手の飛車が下段を行ったり来たりしたのは後手の得で,僕はそのあたりは後手の広瀬竜王の方がいいのではないかと思っていました。
先手が2筋を狙って香車を打った局面。ここが重要な分岐だったようです。
実戦は☖8六とと金取りに引きました。これがあまりよくなく,一旦は☖8八馬と入り,後で☖7七ととした方がよかったようです。
実戦は☗2三歩成とし,☖7六とに☗同歩と取りました。これが先手の好手順でした。さらに☖2三金☗同香成☖8五銀のとき,7六の地点を下から支えるのではなく☗7五桂と上から受けるのがまた好手。☖7六銀とされて損のように思えるのですがそこで☗8三桂成としておくのがよい手で,☗7二歩を避ける☖7五飛に☗3二成香と入ったところで先手の攻め脚が早くなっています。
第2図から☖8二歩☗8四成桂と進めたのも,後手にとっては損だったかもしれません。ですが第2図ではどうも先手が優位に立っているようです。
豊島名人が先勝。第二局は23日と24日です。
僕はここまで,虚偽falsitasが虚偽であるという認識cognitioが含まれているなら,その虚偽を肯定する意志作用volitioは,十全adaequatumなるものを十全なるものとして肯定する意志作用と同じだけの力potentiaを有し,その認識が含まれていなければそれはあたかも力とは反対の意味で無力impotentiaであるかのように説明してきました。これはここでの僕の論旨を分かりやすくするための方法なのであって,実際には虚偽が虚偽であるという認識が含まれていない場合,つまり誤謬errorを犯している場合でも,それが正確な意味で無力であると把握するのは誤りであると僕は考えています。最後に説明しておきたいことというのはこのことです。
虚偽と誤謬の相違を,何度もいうように僕は第二部定理三五に依拠して解釈します。このとき,虚偽が虚偽であるという認識が含まれているか含まれていないかということとは関係なく,何らかの混乱した観念idea inadaequataがあるということは前提になります。そうでなければ虚偽すなわち混乱した観念を虚偽であると認識できるか否かということが問題となりようがないからです。このとき,それが虚偽であるか否かの認識の有無と関係なく,ただ単にあるものが混乱して認識されているという限りでは,この混乱した観念の形相formaは,その人間が誤謬を犯そうと犯すまいと同一です。こうした混乱した観念の形相が誤謬を犯す人間の精神mens humanaのうちに現実的に存在するということは,その人間の精神の力potentiaであると解するべきだと僕は考えます。ですから,第二部定理三五というのは,虚偽が虚偽であるという認識の欠乏privatioに関してのみ言及されているので,この場合にはこの欠乏は完全なる欠如を意味します。ですが,ある人間の精神が誤謬を犯すということをその全体でみるとするなら,そこには混乱した認識は含まれているのですから,認識の欠乏は完全なる欠如というよりはある不足を意味することになります。もちろんその不足とは,その混乱した観念が混乱した観念であるという認識の不足であり,不足していない分の認識が,混乱した観念そのものの認識です。
つまり,誤謬というのは誤謬を犯す人間の精神の認識の全体という観点からは,無力というわけではなく,不足しているとはいえ力のひとつです。