スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

寛仁親王牌・世界選手権記念&肯定する力

2019-10-15 18:52:12 | 競輪
 台風19号の影響で2日目以降が順延された前橋グリーンドームでの第28回寛仁親王牌の決勝。並びは小松崎‐和田の東日本,三谷‐村上の近畿,清水‐中川‐園田の西国で木暮と浅井は単騎。
 和田がスタートを取って小松崎の前受け。3番手に三谷,5番手に木暮,6番手に清水,最後尾に浅井で周回。残り3周のバックの入口の手前から清水が上昇開始。バックの出口で誘導は退避。清水が小松崎を叩きましたが,小松崎は引かず,外の中川と併走に。併走の後ろに浅井,木暮が続き,8番手に三谷という隊列になって清水はスローペースに落としました。バックから三谷が発進。清水を叩いて打鐘。ペースアップで競り合いに決着がつき,清水の後ろは小松崎‐和田に。浅井,木暮と続き,園田がスイッチ。番手を奪われた中川が最後尾の一列棒状に。バックから浅井が捲りましたがこれは前まで届かず。やや車間を開けていた村上が直線入口から踏み込んで優勝。逃げた三谷が半車身差の2着に粘って近畿のワンツー。清水は流れ込む形で8分の1車輪差の3着。清水の外にいった小松崎が4分の1車輪差の4着で村上と清水の間を突いた和田が4分の1車輪差で5着。
                                        
 優勝した京都の村上博幸選手はサマーナイトフェスティバル以来の優勝でビッグ8勝目。GⅠは2014年2月の全日本選抜競輪以来の4勝目。寛仁親王牌は初優勝。このレースは三谷と清水の争いではないかとみていました。三谷が先制し粘り込むレースになったので,番手の村上に展開の利があったというところでしょう。ただ,清水も3番手ですから位置としては悪かったわけではなく,もっと早めに動いていった方がよかったのではないでしょうか。村上が番手選手としてうまかったのは事実ですが,やや積極性に欠けるレースであったという印象はぬぐい得ません。

 人間の精神mens humanaのうちにある混乱した観念idea inadaequataは,その観念の対象ideatumとなっているものの本性naturaを含んでいる観念です。そしてそれは,その人間の身体humanum corpusが観念の対象となっているものに刺激されるaffici限りにおいては,そのものの本性の観念であるということができます。また,観念の対象となっているものが自分の身体であったり自分の精神であったりする場合には,何らかの物体corpusに刺激される限りにおいての身体なり精神の本性の観念であるということができます。このためにそうした混乱した観念を肯定する意志作用volitioというのは,真verumなるものを真なるものとして,あるいは十全adaequatumなるものを十全なるものとして肯定する意志作用と同じだけの力potentiaを有するのです。なぜなら,たとえば外部の物体Xの混乱した観念を肯定する意志作用は,Xが自分の身体を刺激するafficere限りでのXの本性を肯定するような意志作用であるといえるからです。
 繰り返しになりますが,それが同じだけの力であるとみなせるのは,その混乱した観念が混乱した観念であるということを知っている限りにおいてです。このことをより積極的にいえば,たとえばXの表象像imagoについては,Xが自分の身体を刺激する限りにおいてのXの本性の観念であるということを知っている限りにおいてであるということです。もちろんそれが虚偽falsitasであるということ,真理veritasではないということさえ知っていれば,それがどのような観念であるのかということまで知っていなければならないというものではありませんが,虚偽を虚偽であると知るということが具体的にどのような意味であるのかということを示せば,これがその条件となるという意味で説明しました。
 このことをスピノザが明言しているのが第二部定理一七備考です。そこでいわれているように,もし虚偽を虚偽として認識するcognoscereのであれば,虚偽を認識することは人間の精神の欠点ではなくむしろ長所なのです。そしてその理由のひとつとして,混乱した観念が含んでいる意志作用は,それ自体でみるならば力である,それも,十全な観念idea adaequataが含んでいる意志作用と同じだけの力であるからだということをあげることもできるでしょう。
 さらにこのことは,第四部定理一とも関係を有します。
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