スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

滝澤正光杯in松戸&混乱した観念の不一致

2019-10-08 18:54:08 | 競輪
 システム障害の影響で初日から順延された松戸競輪場での千葉記念の決勝。並びは渡辺‐内藤の北日本,小埜‐伊勢崎-中村-二藤の南関東,取鳥-原田の中国四国で三谷は単騎。
 渡辺がスタートを取って前受け。3番手に小埜,7番手に三谷,8番手に取鳥で周回。残り3周のホームを過ぎると取鳥が上昇開始。バックで小埜が合わせて出ると取鳥は引きました。そのまま小埜が渡辺を叩いて前に。二藤の後ろで渡辺と三谷の併走となり,引いた取鳥は再び8番手となって打鐘。二藤の後ろを取ったのは渡辺。三谷は内藤の後ろに入り直し,ホームから発進。渡辺は二藤の内から4番手を取りにいったためこれに対応できず,取鳥が三谷に乗る形に。バックから伊勢崎が番手捲りに出ましたが,三谷が外から捻じ伏せました。伊勢崎マークの中村が直線で三谷と三谷マークのようなレースになった取鳥の間から鋭く伸び,三谷にきわどく迫りましたが届かず,優勝は三谷。中村が8分の1車輪差の2着で取鳥が4分の3車身差の3着。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は昨年の競輪グランプリ以来の優勝。記念競輪は昨年3月の玉野記念以来となる4勝目。千葉記念は初優勝。このレースは南関東が4人いたのですが,小埜は先行して強いタイプではありませんし,伊勢崎も今は自力で走る選手ではないので,力のある三谷か渡辺が展開はあまり関係なしに勝つのではないかと思っていました。三谷は渡辺に弾かれてかなり苦しかったのですが,そこから立て直して自力で発進し,番手捲りを乗り越えたのですからやはり力が上だったということでしょう。伊勢崎はもっと早く発進してしまうべきだったように思いますし,渡辺は位置の確保にこだわり過ぎたように思えます。

 第二部定理一一系の具体的意味によれば,ある人間の精神mens humanaの本性naturaを構成するとともにほかのものたとえばAの観念ideaを有する限りでXの十全な観念idea adaequataが神Deusのうちにある場合,その人間はXを混乱して認識します。ここから分かるのは,だれが認識するcognoscereかによって,Xの混乱した観念idea inadaequataの様式が変化するということです。なぜなら,たとえばPという人間の精神の本性を構成するとともにAの観念を有する限りで神のうちにXの十全な観念があるときPはXを混乱して認識し,Sという人間の精神の本性を構成するとともにAの観念を有する限りで神のうちにXの十全な観念があるならSはXを混乱して認識することになるので,もしPのうちにあるXの混乱した観念とSのうちにあるXの混乱した観念が完全に一致するためには,Pの精神の本性とSの精神の本性が同一でなければなりません。しかしこれをいうのは不条理でしょう。したがって,各々の人間の精神の現実的本性actualis essentiaが異なる分だけ,各々の人間の精神のうちにある,同じものを対象とした混乱した観念は異なるのでなければなりません。そしてスピノザの哲学では,身体の観念を精神というのですから,各々の人間の身体corpusの現実的本性が異なる分だけ,各々の人間が有する混乱した観念も異なるといい換えることもできます。
                                   
 各々の人間にあって混乱した観念の様式が異なるということは,さらに別の方法によっても説明することができます。たとえば,Pの精神の本性を構成するとともにAの観念を有する限りでの神のうちにXの十全な観念があるとき,Sの精神の本性を構成するとともにAの観念を有する限りで神のうちにXの十全な観念があるということは,絶対にそうでなければならないというものではないからです。たとえばSの精神の本性を構成するとともにBの観念を有する限りで神のうちにXの十全な観念があるという場合もあり得るのです。よってどちらの場合も,つまりPもSもXを混乱して認識するのですが,仮にPの精神の本性とSの精神の本性が同一の本性であるとしても,Aの観念とBの観念が異なるだけXの観念のあり方は異ならなければなりません。つまりPとSはXを異なった様式で混乱して認識するのです。
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