スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋聖戦&自己認識の十全性

2017-04-27 19:23:25 | 将棋
 一昨日の第88期棋聖戦挑戦者決定戦。対戦成績は糸谷哲郎八段が1勝,斎藤慎太郎七段は0勝。
 振駒で糸谷八段の先手となり斎藤七段が横歩取りに誘導。先手が3四に飛車を置いたまま6八に玉を上がる形になりました。途中で先手が角を交換して馬を作ったのですが,これが思ったほど効果的でなかったようで後手が優位に。そのまま後手が快勝しておかしくない将棋でしたが終盤はもつれました。
                                     
 先手の3三にいた龍が侵入した局面。そもそも銀を取ったので3三にいたのですが,その手も必要だったのかは不明でした。
 後手は☖6五桂☗8六王☖8二香☗8五銀☖6三角と進めました、先手は☗8四角と受けましたがこの手は後手の読みになかったそうです。
 後手は☖同香と取って☗同銀に☖8三歩と打ちました。これは詰めろではないので手番が先手に。
 ☗5一成桂☖同銀☗4二金で後手玉は詰めろ。なので☖6二角と受け☗5一金☖同角☗4二銀と進みました。
 ここでは☖4一金と打てば後手が勝っていましたが☖4一桂と打ち☗5一銀成☖同玉と受けました。
 この局面は先手が勝てそうに思えるのですが,最も厳しそうな☗4二歩では☖8四歩で勝つのは難しいのだそうです。それで☗8三銀成としました。そこで☖9八銀という詰めろ。
                                     
 ここから先手は☗9五角☖7三歩を利かせてから☗9六歩と逃げ道を作りましたが☖8五金☗9七王に☖8九銀不成と桂馬を取られて大勢が決しました。これは桂馬の取られ方がいかにも悪すぎたので,第2図では☗7七桂と跳ねて詰めろを受け,もし☖同桂成なら☗9五角と打つ方が,負けかもしれませんが実戦より難しかったようです。
 斎藤七段が挑戦権獲得。タイトル戦は初出場。第一局は6月1日です。

 岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請三によれば,人間の身体corpusは外部の物体corpusからきわめて多様の仕方で刺激されます。つまり現実的に存在する人間の身体が外部の物体によって一切の刺激を受けないということはあり得ません。ですから,身体が外部の物体によって刺激を受けなければ,人間の自己認識の基礎は成立しない,つまり人間は自己を認識できないというのは,論理的には正しいのですが,単に論理的にはそう帰結するというだけで,現実的に何かを意味しているわけではありません。むしろ現実的に存在する人間は,必然的にnecessario自己を認識するというべきでしょう。
 この部分については,デカルトによる方法論的懐疑と折り合いをつけることが可能です。というのは,デカルトがすべてを疑ったあるいは疑おうとしたということを,人間の身体が外部の物体によって刺激を受けることと置き換えればよいからです。すなわち,身体が外部の物体によって刺激を受けることで自己の認識cognitioが成立するように,疑うという思惟的営為をもって自己の認識が成立するというように解することは不可能ではないからです。ただ,そのように発見された自己認識すなわち自己の観念ideaが,どのような観念であるかということまで射程に入れてしまうと,たぶんデカルトの考え方とスピノザの考え方の間には隔たりが生じます。そしてこれが,スピノザによる現実的に存在する人間の自己認識というものの際立った特色ではないかと僕は考えています。
 もう一度,第二部定理一九第二部定理二三を確認してください。スピノザによる自己認識は,この様式をもってのみ基礎となるのです。つまりこれ以外の様式で現実的に存在する人間が,現実的に存在する自己を認識するということはありません。しかるにこの様式を通してその人間の精神mens humanaのうちに発生する自己認識すなわち自己の身体の観念および自己の精神の観念は,第二部定理二九系が明らかにしているように,十全な観念idea adaequataではなく混乱した観念idea inadaequataなのです。実際に身体については第二部定理二七で,精神に関しては第二部定理二九で言及されている通りです。つまり自己認識は十全な認識でないということになるのです。
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