スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ゴールド・ウイング賞&自己認識

2017-04-25 19:11:25 | 競輪
 被災地支援競輪として行われた西武園記念の決勝。並びは近藤‐和田‐武井の千葉,松谷に諸橋,脇本‐稲垣‐村上‐沢田の近畿。
 スタートを取ったのは近藤。その後で和田が外から追い抜いていきましたがこれは同じラインなので近藤の前受けに。4番手に松谷,6番手に脇本の周回。残り2周のホームに入ろうかというところで近藤が誘導との車間を徐々に開けていきました。ホームから脇本が発進しようとしましたが近藤もスピードを上げ,脇本は4番手に。松谷は完全には引かず脇本の後ろで稲垣と併走に。このまま打鐘。近藤はそれ以上のペースアップをしなかったのでホームから脇本が発進。そのまま近藤を叩いてかまし先行の形に。インの松谷がうまく番手を奪い,この後ろの諸橋は続けず近藤が3番手に収まってバック。稲垣は近藤の後ろの和田の外で併走でしたがバックを過ぎると一杯。直線の手前から松谷が踏み込み,逃げた脇本を差して優勝。流れ上は松谷マークのレースになった近藤が外から続いて1車輪差の2着。逃げた脇本が4分の1車輪差で3着。
 優勝した神奈川の松谷秀幸選手は2013年6月に小田原で開催された花月園メモリアル以来の記念競輪2勝目。このレースは脇本の先行が予想され,番手を回る稲垣が絶対的に有利だろうと考えていました。もし脇本が最初に動いたときに近藤があっさりと引いていたら,おそらくそういう展開になったのではないかと思います。松谷は最初からイン粘りを想定していたとは思いませんが,その段階ではもう引くことはできず,稲垣の内で粘るほかない展開に。ただ,勝とうとするならばこれがベストではあり,うまく展開が嵌ったという感はあります。別ラインでしたが近藤と松谷は同じ南関東地区であり,結果的には双方が有利になるように協力し合ったようなレースになりました。

 あえて無意味というほかない比較を行ったのは,デカルトRené Descartesが想定する自己と,スピノザが想定する自己の間には,確かに相違があるということを明瞭にするためです。この目的のために,デカルトの方法論的懐疑doute méthodiqueについても,その正当性についての正確性と精緻性を欠く仕方で説明したのだとご理解ください。ここからはスピノザの哲学でいう自己というのがどのような概念notioであるのか,あるいはあり得るのかということだけに焦点を絞って考察していきます。
                                     
 基本的にスピノザの哲学における自己認識は,二種類の仕方で提示されていると僕はいいます。ここでいう二種類というのは,認識cognitioそのものにおける区分のことです。すなわち第二部公理五にあるように,人間はもろもろの物体corpusともろもろの思惟の様態cogitandi modiのみを認識し,それ以外のものは認識しません。したがって自己認識という場合の認識も,人間の精神mens humanaにあっては,そのどちらかであるかそうでなければその両方であり,それ以外ではあり得ません。僕はその両方,つまり物体としての自己認識という意味と,思惟の様態としての自己認識という意味で,これを二種類といいます。要するに現実的に存在する人間の精神による自分の身体corpusの認識と自分の精神の認識のことを自己認識というということです。
 ただし,これをいう場合には次の点に注意してください。たとえばスピノザは,自分の身体については人間身体自身といいますが,自分の精神については人間精神自身という場合もありますが単に自分自身という場合もあります。ここから理解できるように,スピノザにとって自分の精神とは自分自身ではありますが,自分の身体は自分自身ではないのです。同様にスピノザは,人間の精神と人間の本性humana naturaを等置することがありますが,人間の身体の本性はあくまでも人間の身体の本性であって,人間の本性とはみなしません。これはこれで十分に合理性がある考え方であるということはかつて説明したのでここでは繰り返しません。ただ,僕はここでは自己認識というのを,スピノザが自分自身といったり人間の本性といったりすることよりももっと広い意味で規定しているという点に注意しておいてほしいのです。
コメント
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