『行人』の主人公といえる一郎は,ストーリー上はコキュではありませんが,寝盗られ願望があったと解することはできるでしょう。
一郎には直という妻がいます。しかし直は一郎の弟である二郎に惚れているのではないかという疑念を抱いています。そこで直の節操を試してほしいとほかならぬ二郎に依頼します。内容は二郎と直がふたりで和歌山に旅行に行って一泊してほしいというものです。二郎はこの依頼を断ります。ですがすべてを断ることはできず,この会話のあった翌日に,直とふたりで和歌山見物に出掛けます。宿泊はせずに帰る予定でした。ところがその日,天候が急変して帰ることができなくなり,二郎と直は宿屋の同部屋に一泊することになるのです。
このプロットはそのままポルノやアダルトとして成立しそうですらありますが,二郎と直との間に肉体関係が成立するわけではなく,一郎がコキュとなるわけではありません。他面からいえば結果的に一郎の依頼した通りに直の節操が試されることになったわけですが,直は節操のある女だったということになります。二郎もそのように一郎に報告しました。
しかし,この一郎の二郎に対する依頼というのは普通ではないのではないでしょうか。一郎は二郎のことを信頼していて,だから直の節操を試す男として二郎を選ぶという主旨のことを言っています。しかしその二郎は,直が本当は惚れていると思っている男なのです。いい換えれば,もしも直が浮気をするならば,その可能性が最も高いと思っているような人物なのです。そうした人物と妻がふたりで一泊すれば,自分がコキュとなる可能性もまた高いと一郎には思えた筈です。いくら一郎が二郎のことを信頼していたとはいえ,もしふたりの間に何かが起こった場合でも,二郎がそのことを正直に一郎に対して報告すると一郎が考えていたとは思えません。
このように考えれば,本当は一郎は二郎に直を寝盗られたいと思っていたのだと解することは可能でしょう。だから一郎には寝盗られ願望があったようにも思えるのです。
自己原因causa suiとは原因をもたないものであるという規定は,スピノザの哲学において定義Definitioはどんなものでなければならないかという論述から定義であるといえません。ただ,この規定がスコラ哲学の見解であったかどうかは別に,スピノザの哲学でいう自己原因と大きな相違点を有しています。それは,あらかじめ原因というものを想定して,その想定の下に,自己原因とは何であるのかということを規定しようとする姿勢です。これがスピノザの考え方と反対であるということは,スピノザの哲学の理解の上で欠かすことができない要素のひとつですから,それについては僕も過去に何度も言及しました。すなわちスピノザの哲学における自己原因と原因との関係は,自己原因が原因のようなものであるわけではなく,原因といわれるものは自己原因のようなものなのです。つまり原因によって自己原因について考えることは,結果から原因を探求するような行為なのであって,正当性を欠きます。むしろ自己原因によって原因というのを考えなければならないのです。スピノザの哲学の用語を使うならば,原因が自己原因の変状affectioです。自己原因が原因の変状なのではありません。
こうしたことを,原因という観点からは考えたのですが,自己原因といわれるときの自己という観点からは詳細に考察したことがありませんでした。しかし,もしこうした姿勢の相違が,原因ということの何たるかを考え,結論する場合に影響を与えるのだとすれば,それと同じように,自己というものに関する考え方および結論にも影響するかもしれません。つまり今回は,自己原因と原因との関係から派生してくるであろう結論を,原因という観点を中心として考察するのではなく,自己という観点から考察してみようと思うのです。
スコラ哲学の考え方については僕の知識が不足していますので,それとの比較は僕には無理があります。そこで僕は,まずデカルトが用いた方法論的懐疑を対象として,その中に,自己というものに対する考え方として,スピノザの哲学と著しく異なっている点はないかということを考えます。方法論的懐疑は方法論ですが,哲学や形而上学も含んでいると思います。
一郎には直という妻がいます。しかし直は一郎の弟である二郎に惚れているのではないかという疑念を抱いています。そこで直の節操を試してほしいとほかならぬ二郎に依頼します。内容は二郎と直がふたりで和歌山に旅行に行って一泊してほしいというものです。二郎はこの依頼を断ります。ですがすべてを断ることはできず,この会話のあった翌日に,直とふたりで和歌山見物に出掛けます。宿泊はせずに帰る予定でした。ところがその日,天候が急変して帰ることができなくなり,二郎と直は宿屋の同部屋に一泊することになるのです。
このプロットはそのままポルノやアダルトとして成立しそうですらありますが,二郎と直との間に肉体関係が成立するわけではなく,一郎がコキュとなるわけではありません。他面からいえば結果的に一郎の依頼した通りに直の節操が試されることになったわけですが,直は節操のある女だったということになります。二郎もそのように一郎に報告しました。
しかし,この一郎の二郎に対する依頼というのは普通ではないのではないでしょうか。一郎は二郎のことを信頼していて,だから直の節操を試す男として二郎を選ぶという主旨のことを言っています。しかしその二郎は,直が本当は惚れていると思っている男なのです。いい換えれば,もしも直が浮気をするならば,その可能性が最も高いと思っているような人物なのです。そうした人物と妻がふたりで一泊すれば,自分がコキュとなる可能性もまた高いと一郎には思えた筈です。いくら一郎が二郎のことを信頼していたとはいえ,もしふたりの間に何かが起こった場合でも,二郎がそのことを正直に一郎に対して報告すると一郎が考えていたとは思えません。
このように考えれば,本当は一郎は二郎に直を寝盗られたいと思っていたのだと解することは可能でしょう。だから一郎には寝盗られ願望があったようにも思えるのです。
自己原因causa suiとは原因をもたないものであるという規定は,スピノザの哲学において定義Definitioはどんなものでなければならないかという論述から定義であるといえません。ただ,この規定がスコラ哲学の見解であったかどうかは別に,スピノザの哲学でいう自己原因と大きな相違点を有しています。それは,あらかじめ原因というものを想定して,その想定の下に,自己原因とは何であるのかということを規定しようとする姿勢です。これがスピノザの考え方と反対であるということは,スピノザの哲学の理解の上で欠かすことができない要素のひとつですから,それについては僕も過去に何度も言及しました。すなわちスピノザの哲学における自己原因と原因との関係は,自己原因が原因のようなものであるわけではなく,原因といわれるものは自己原因のようなものなのです。つまり原因によって自己原因について考えることは,結果から原因を探求するような行為なのであって,正当性を欠きます。むしろ自己原因によって原因というのを考えなければならないのです。スピノザの哲学の用語を使うならば,原因が自己原因の変状affectioです。自己原因が原因の変状なのではありません。
こうしたことを,原因という観点からは考えたのですが,自己原因といわれるときの自己という観点からは詳細に考察したことがありませんでした。しかし,もしこうした姿勢の相違が,原因ということの何たるかを考え,結論する場合に影響を与えるのだとすれば,それと同じように,自己というものに関する考え方および結論にも影響するかもしれません。つまり今回は,自己原因と原因との関係から派生してくるであろう結論を,原因という観点を中心として考察するのではなく,自己という観点から考察してみようと思うのです。
スコラ哲学の考え方については僕の知識が不足していますので,それとの比較は僕には無理があります。そこで僕は,まずデカルトが用いた方法論的懐疑を対象として,その中に,自己というものに対する考え方として,スピノザの哲学と著しく異なっている点はないかということを考えます。方法論的懐疑は方法論ですが,哲学や形而上学も含んでいると思います。