スピノザの聖書解釈の方法の最も大きな特徴は,聖書は何らの真理も説かずに,ただ服従することを教えるという点にありました。このとき,聖書の読者が何に服従するべきかと教えられるのかといえば,もちろん神に対してです。ですがもし神が単に横暴な存在でしかなく,強制的な力によって自らに服従せよと教えたとしても,それで人を服従させることは無理でしょう。したがって人が神に納得して服従するために,神は何らかの条件を満たしていなければなりません。スピノザはこれを『神学・政治論』の第14章で7項目にわたって示しています。
第一に神が存在することです。これはとくに説明不要でしょう。
第二に神が唯一であることです。神がほかの何よりも優れていることを示すために必要な条件です。
第三に神が遍在することです。そうでないと神に隠し事をすることが可能になるからです。
第四に神が至高の権利を有することです。そうでないと神がほかのものに従うことになってしまうからです。
第五に神を崇拝することが正義を行い愛をなすことに直結することです。これはスピノザが聖書の教えとして理解していることであり,それは万人が納得できることであるから,人が神に服従することができるのです。
第六に神の教えに服従すれば救われることです。これは他面からいえば,服従しなければ救われないということです。
第七に神は悔悛した人を許すことです。もし悔い改めても神が許さないなら,人は救われる希望をもてません。また,神が憐れみ深い存在でもなくなってしまうでしょう。
スピノザはこれらの条件が聖書では満たされていると考えています。だから人を敬虔pietasにする聖書のことをスピノザは評価するのです。
僕たちの精神のうちに第三種の認識cognitio tertii generisが発生するとき,僕たちがそれを第三種の認識であると断定しづらい理由は僕には経験的に理解できます。それは単純にいって,僕たちが数多くの物体を表象する,第一種の認識cognitio primi generisによって認識するからです。つまり僕たちはあまりにも表象に慣れすぎてしまっているために,精神の眼で認識した事柄に対しても,身体の目で認識しているのではないかと思い込んでしまったり疑ったりしてしまうのだと思うのです。第五部定理二三備考のスピノザのいい回しも,僕たちが物体が現実的に存在すると感じるように,推論によって論証された事柄を感じると解釈できるものになっていて,これは僕たちが第三種の認識に対して疑心暗鬼に陥ってしまうことの理由であると同時に,なおさらその疑心を強くさせるようなものになっているといえるでしょう。これは想像にすぎないのか,それとも第三種の認識なのかと考えているところに,第三種の認識は事物を想像するように感じられる思惟作用であると読解できるいい回しとなっているからです。
僕が示したふたつの経験が第三種の認識であるかどうかは別としても,少なくとも第五部定理二三で「あるものaliquid」といわれている何かが現実的に存在する人間の精神によって認識されるなら,これは第三種の認識でなければならないということだけは間違いないといえます。そしてこの「あるもの」が現実的に存在する人間の精神の本性に属するものであるということも推論すなわち第二種の認識cognitio secundi generisによって確定できます。したがって人間の精神というものは,それは現実的に存在するとみられる限りにおいても永遠であるということ,その全体が永遠であることはもちろんあり得ませんが,神の本性を通して永遠なる必然性によって考えられなければならない何かは永遠であるといわなければなりません。このためにスピノザの哲学において永遠の公式というものを成立させるためには,観念されたものが精神の外に実在するかしないかに関係なく,観念は実在し得るということが根拠にならなければなりません。いい換えれば観念対象なしに観念が実在し得ないと,この永遠の公式は成立しないことになるのです。
第一に神が存在することです。これはとくに説明不要でしょう。
第二に神が唯一であることです。神がほかの何よりも優れていることを示すために必要な条件です。
第三に神が遍在することです。そうでないと神に隠し事をすることが可能になるからです。
第四に神が至高の権利を有することです。そうでないと神がほかのものに従うことになってしまうからです。
第五に神を崇拝することが正義を行い愛をなすことに直結することです。これはスピノザが聖書の教えとして理解していることであり,それは万人が納得できることであるから,人が神に服従することができるのです。
第六に神の教えに服従すれば救われることです。これは他面からいえば,服従しなければ救われないということです。
第七に神は悔悛した人を許すことです。もし悔い改めても神が許さないなら,人は救われる希望をもてません。また,神が憐れみ深い存在でもなくなってしまうでしょう。
スピノザはこれらの条件が聖書では満たされていると考えています。だから人を敬虔pietasにする聖書のことをスピノザは評価するのです。
僕たちの精神のうちに第三種の認識cognitio tertii generisが発生するとき,僕たちがそれを第三種の認識であると断定しづらい理由は僕には経験的に理解できます。それは単純にいって,僕たちが数多くの物体を表象する,第一種の認識cognitio primi generisによって認識するからです。つまり僕たちはあまりにも表象に慣れすぎてしまっているために,精神の眼で認識した事柄に対しても,身体の目で認識しているのではないかと思い込んでしまったり疑ったりしてしまうのだと思うのです。第五部定理二三備考のスピノザのいい回しも,僕たちが物体が現実的に存在すると感じるように,推論によって論証された事柄を感じると解釈できるものになっていて,これは僕たちが第三種の認識に対して疑心暗鬼に陥ってしまうことの理由であると同時に,なおさらその疑心を強くさせるようなものになっているといえるでしょう。これは想像にすぎないのか,それとも第三種の認識なのかと考えているところに,第三種の認識は事物を想像するように感じられる思惟作用であると読解できるいい回しとなっているからです。
僕が示したふたつの経験が第三種の認識であるかどうかは別としても,少なくとも第五部定理二三で「あるものaliquid」といわれている何かが現実的に存在する人間の精神によって認識されるなら,これは第三種の認識でなければならないということだけは間違いないといえます。そしてこの「あるもの」が現実的に存在する人間の精神の本性に属するものであるということも推論すなわち第二種の認識cognitio secundi generisによって確定できます。したがって人間の精神というものは,それは現実的に存在するとみられる限りにおいても永遠であるということ,その全体が永遠であることはもちろんあり得ませんが,神の本性を通して永遠なる必然性によって考えられなければならない何かは永遠であるといわなければなりません。このためにスピノザの哲学において永遠の公式というものを成立させるためには,観念されたものが精神の外に実在するかしないかに関係なく,観念は実在し得るということが根拠にならなければなりません。いい換えれば観念対象なしに観念が実在し得ないと,この永遠の公式は成立しないことになるのです。