スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典東京プリンセス賞&人間の精神の否定

2016-04-21 21:01:17 | 地方競馬
 第30回東京プリンセス賞。町田騎手がぎっくり腰のためエメンタールベルンは的場文男騎手に変更。ラッキーバトルが枠内で暴れて左の後ろ脚を負傷したため競走除外となり14頭。
 ゆっくりとした発馬で4頭が一団でしたがその中で最も内にいたモダンウーマンが逃げることに。単独の2番手にハッチャンハッピー。向正面でワカチナが単独の3番手となってマテリアメディカ,エイシンリオ,スアデラの3頭は一団。直後のリンダリンダまでは先行集団。少しだけ差があってエメンタールベルンとオルキスリアン。ジャストゥラヴ,ドンナディヴィーと続きタケショウメーカーとコルディリエーラ。最後尾からポッドガゼール。とはいっても先頭から10馬身ほどで,ほとんど一団での競馬でした。最初の800mは51秒4のミドルペース。
 3コーナーを回ってハッチャンハッピーは後退し,ワカチナが2番手に上がるとその外にスアデラが追い上げて3頭が雁行で直線に。これを目標に上がってきたリンダリンダは直線でスアデラの外に。4頭の競り合いは外の2頭の伸び脚がよく優勝争いは2頭に。最後は外のリンダリンダがスアデラも離して優勝。2馬身差の2着にスアデラ。最後まで競り合ったモダンウーマンとワカチナに大外から末脚を炸裂させたポッドガゼールも迫っての3馬身差の3着争いはしぶとかったモダンウーマン。ワカチナがハナ差の4着でポッドガゼールがクビ差の5着。
 優勝したリンダリンダは転入3戦目で南関東重賞初勝利。北海道重賞は2勝していましたがそれはモダンウーマンが不在のレース。初手合わせからモダンウーマンには4連敗中でしたが,距離が伸びることがプラスになるのはこちらと思えたので,いずれは逆転もあり得るとみていました。それが1800mのここだったということでしょう。絶対能力はたぶんモダンウーマンの方が上で,また距離が短くなると勝てなくなるかもしれませんが,対応もできますので,同世代で走る限りは大きく崩れることは考えにくいと思います。セレタクリホマレの分枝。祖母の半兄に1989年に極悪馬場になったフェブラリーハンデを勝ったベルベットグローブ
 騎乗した北海道の桑村真明騎手は南関東重賞は初勝利。管理している大井の荒山勝徳調教師は東京プリンセス賞初勝利。

 人間の身体humanum corpusが現実的に存在するといわれるのと同じ意味で,その人間の身体の本性essentiaも現実的に存在するといわれるという僕の解釈に依拠すれば,第五部定理二二でいわれている人間身体の本質は,神Deusの中にあるとされるそれを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaとして客観的にobjective存在するのではなく,形相的な意味においても存在しているものであり,しかしそれは神の中で永遠の相の下でも表現されるexprimunturことになるということになります。つまり人間の身体の本性が神の中にあるその観念と等置されているわけではなく,形相的にformaliter,しかも現実的にも存在する本性が,神の中では永遠の相の下に表現される,あるいは表現され得るということが主張されているのだと僕は解します。
                                     
 ただ,現実的に存在する人間の身体の本性とは,人間の精神mens humanaによっては十全に認識され得ないものです。あるいは人間の精神によっては概念され得ないものです。このゆえにそれは次の第五部定理二三では「あるものaliquid」とだけいわれて,何であるかは規定されていないのです。それは人間にとっては規定することができない「あるもの」なのです。ただ,人間の身体というのは人間の精神の現実的有actuale esseを構成する諸観念の対象ideatumですから,その「あるもの」が人間の精神の本性に属さなければならないということまでは,人間は推論によって明らかにすることができます。このゆえに第五部定理二三備考では,人間はおそらくは第三種の認識cognitio tertii generisによって,自分の精神が永遠であると感じたり経験することはできるといわれることになります。他面からいえばそれは,自分の身体が永遠であると感じたり経験したりすることはできないという意味であるのですが,これは前もっていっておいたように,人間の精神が何を第二種の認識cognitio secundi generisによって認識するcognoscereことが可能で,何を認識することは不可能であるかということによって区別されるのであり,精神の身体に対する優越性とか特権を意味するものではないと僕は考えます。むしろこのことは,人間の精神が有限finitumであるといわれるときの,ある限界点を意味するのであり,限定determinatioと否定negatioに一定の関連があることを考慮すれば,人間の精神の否定に近いというのが僕の考え方なのです。
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