スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ゴールド・ウイング賞&第五部定理二二の中心

2016-04-24 19:08:42 | 競輪
 西武園記念の決勝。並びは池田‐平原‐藤田‐芦沢‐山口の関東と吉田‐浅井の中部で稲垣と吉本は単騎。
 稲垣がスタートを取って前受けに。2番手に吉田,4番手に吉本,5番手に池田の周回に。残り2周のホーム前のコーナーから池田が上昇を開始。分断はなくホーム後のコーナーで前に出ました。吉田が続いて6番手になり,8番手に稲垣,最後尾に吉本となって一列棒状でバックを通過。打鐘から吉田が発進。ホームで迫られた平原が番手発進で対抗。吉田はバックで一杯になり,平原が先頭で直線に。しかし最後までは保たず,後ろを回った藤田が差して優勝。藤田マークの芦沢が4分の3車輪差の2着。平原が4分の1車輪差の3着で関東勢の上位独占。
 優勝した埼玉の藤田竜矢選手は2013年7月の高知記念以来の記念競輪2勝目。ここはラインの厚みが違いましたから,関東勢に有利になりそうなのは事前に想定されたところ。どこかで分断されることだけが憂慮されましたが,結果的に二分戦のようなレースになりました。こうなると自力を使える3人が前にいた関東勢にはさらに有利になりました。吉田がわりと早い段階で迫ったため,平原もそこから出ていくことに。意外に粘りを欠いた印象も否めませんが,無風で平原の後ろを回ることができた藤田にとって最も有利な展開になったということでしょう。

 第五部定理二二についていえば,僕はそこでスピノザが示したかったことは,現実的に存在する人間の身体の本性が,それが現実的に存在するということを離れて,神の中にはそれを永遠の相の下に表現する観念が存在するということであったと思います。いい換えればこの定理は第五部定理二三を導くための必要条件であり,むしろその目的に向かうためにここに配置されたと考えます。したがってこの定理の主眼が,一般に事物の本性というものが永遠の真理ではあるとしても,それはそれ自体によって永遠なのではなく,神の本性を通して永遠であるということなのだという福居の見解には同調できません。「精神の眼は論証そのもの」の論述は,僕がいっているのに近いような形で構成されていると思えますから,第五部定理二二のスピノザによる主張の中心がどこにあるのかという点に関しては,上野の方が僕に近い見解を有していると思われます。
                                    
 ただし,だから福居が誤ったことをいっているというわけではありません。確かに一般に事物の本性がそれ自体で永遠であるということはできないということは,第一部定理二五第一部公理六から明白だといわなければなりませんし,とくにそれが永遠であるといわれるためには,第五部定理二二証明でスピノザが援用している第一部定理一五の様式で事物の本性が発生するないしは概念される必要があるからです。福居が人間の精神が人間の身体に対して何らかの特権を有しているわけではないと主張する際の鍵はこの点にあるので,第五部定理二二に特化した福居の見解には僕は同意できませんが,特権や優越性に関する福居の主張は成立すると考えます。
 一般に事物の本性が神の本性を通して永遠であるなら,それは特殊的なあるいは個別的なすべてのものに妥当しなければなりません。かくして人間の精神の本性あるいは人間の精神の本性に属する「あるもの」が永遠であるということは,思惟の属性によって認識されなければなりません。これと同じように,現実的に存在する人間の身体の本性が永遠であるということが,延長の属性を通して認識されることになります。この点では精神も身体も同じです。
コメント
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