スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

一滴の潤い&補足

2016-04-09 19:28:24 | 歌・小説
 Kが自殺した後,しばらくして静の涙を見るまで先生が親友の死に対して悲しむことができなかったというのは,どことなく異常さを感じさせます。先生は遺書にこの異常さの原因についてもほんの少しだけ記述しています。ただし,遺書は先生によるこの当時の再構成です。ですから確かにそのときの先生の心理状態がその記述の通りであったかもしれませんが,記述をしているときに自身の心情の異常さに気付いた先生が,記述の時点で理由づけをしたという可能性もあると考えなければなりません。
                                     
 先生によれば,静や奥さんへの感情の模倣affectum imitatioによって感じることができた悲しみは,自身にとって一滴の潤いでした。先生の精神は,この悲しみによってむしろ寛いだのです。しかしこれは第三部諸感情の定義三に反するものではありません。
 Kの自殺以降,先生の精神の中心に去来していたのは,苦痛と恐怖でした。具体的に何に対する苦痛であり,また何に対する恐怖であったのかはここでは詮索しません。先生がKの死に対する悲しみを一滴の潤いだといったのは,その悲しみによって苦痛と不安から解放されたからです。これは第四部定理七から合理的な説明になっているといえます。
 苦痛も恐怖も基本感情でいえば悲しみです。先生がいう苦痛は,『エチカ』でいえば憂鬱といわれている感情に近いと僕は判断します。また恐怖は第三部諸感情の定義一三で僕が不安metusといっている感情の一種で,その程度が強いものです。これらの悲しみが,別の悲しみを感じることで先生のうちから除去されたのです。そのとき先生が感じた悲しみは,確かに先生をより大なる完全性からより小なる完全性へと移行させました。ですがそれまでに感じていた苦痛や恐怖ほどには,大きく完全性を低下させることはなかったのです。だから先生はそれで寛ぐことができたのです。
 悲しみは悲しみであって喜びではありません。しかしある悲しみが別の悲しみを緩和するということは,現実的に生じ得る出来事なのです。

 スピノザの哲学とフェルメールの絵画との間に同じような永遠の公式が成立するためには,スピノザが人間の精神と対象であるその人間の身体との間に導いた関係が,フェルメールの絵画とその絵画の対象との間にも成立するのでなければなりません。すなわち現実的に存在する人間の精神が,対象であるその人間の身体との関係を離れて永遠であるとみなされるように,フェルメールの絵画は,可滅的であるその絵画の対象との関係を離れて永遠を表現しているのでなければならないのです。
 ですがこの課題を検討する前に,さらに補足しておきたいことがあります。おおよそ第五部定理二三とか第五部定理二三備考におけるスピノザの論述というのは,人間の精神には人間の身体にはないような特権が与えられているとか,精神は身体よりも優越的であるというような読解をされると思うのです。僕はそうした読解が絶対的に誤っているとは考えません。ただし,精神には身体には与えられていない特権があるとか,精神は身体に対して優越的であるとかいうことを,それ自体でスピノザが主張していると解するなら,そういう解釈には懐疑的です。なのでこれに関する僕の見解を表明しておきたいのです。
 まず,第五部定理二三備考で,人間の精神が第三種の認識cognitio tertii generisによって自分の精神が永遠であると感じるといっている点については,何らの特権も優越性も与えられていないことは明白です。これは現実的に存在する人間の精神は,自分自身の身体についてはそれを表象するだけ,つまり混乱して認識するだけであるのに対し,自分の精神の本性に属する「あるものaliquid」についてはそれが永遠であるということを第五部定理二三証明の推論によって十全に認識できるから生じる事態であるからです。このために僕たちは自分の身体が永遠であると観想することはできませんが,自分の精神が永遠であると観想することはできるのです。要するにこれは現実的に存在する人間の精神が何を十全に認識し得て,何を十全には認識し得ないのかということとのみ関係しています。ですからもしここに精神の特権があるなら,それは精神が認識という思惟作用をなし得るということだけです。
コメント
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