第三部諸感情の定義二八の高慢は,自己愛が高じて自分自身を正当以上に評価することによって生じる感情です。ですからこれには反対感情が生じ得ることになります。すなわち第三部諸感情の定義二六で定義されている感情,岩波文庫版で謙遜ないしは自劣感と訳され,僕が自己嫌悪humilitasと訳した悲しみが高ずることによって生じる感情です。これは『エチカ』では自卑と名付けられ,第三部諸感情の定義二九に示されています。
「自卑とは悲しみのために自分について正当以下に感ずることである」。
自卑と自己嫌悪が異なるという点には注意してください。自卑は高慢の反対感情であり,自己嫌悪は第三部諸感情の定義二五の自己満足の反対感情です。
スピノザは高慢を狂気の一種とみなしましたが,自卑については明言していません。ただ,自卑的な人間は高慢な人間に最も近いといっていますので,これも狂気か,それに近い感情だとみなしていると解してよいものと思います。なぜこのふたつが近い感情であるのかということは,いずれ詳しく説明するでしょう。
第三部定理一三は,僕たちを悲しませるものを表象した場合には,その表象像を除去する傾向を僕たちが有するということを示しています。ですから人間の精神の現実的本性というものは,自卑とかその要因になる自己嫌悪という感情に対しては,それ自体で反抗的であることになります。ですから自己満足とか高慢という感情に人間が支配されることに比べれば,自己嫌悪や自卑に支配されてしまうことは稀であるといえるでしょう。そしてこれらの感情を除去するためには,第三部諸感情の定義三〇の名誉gloriaという感情が必要です。第四部定理七にあるように,感情を排除するのは別の感情だからです。なので自卑的な人間は,名誉欲が強くねたみ深いという傾向を有することになります。
第五部定理二三備考でスピノザがいっていることを僕がこういうふうに解釈するのは,それが僕の経験に裏打ちされているからです。そして経験に裏打ちされていることが,僕がこの解釈を正しいと断定できない理由のひとつにもなっています。経験による認識は第一種の認識cognitio primi generisである可能性を否定できないからです。ですがこの経験を具体的に示しておくことは有益でしょう。
第一部定理一一で神の実在が論証されるとき,僕は第三の証明が最も優れていると考えています。それは単にこの論証が論理的に明快であるからというだけではないのです。この論証によって僕が神の実在に確信をもつことができるからなのです。
神が存在するかそうでなければ何も存在しないかのどちらかでなければならず,何も存在しないというのは不条理であるから神は存在するということを論理的に示したこの論証によって,僕は神の存在に確信をもつことができるのですが,この確信は能動的感覚にほかならないと僕には思えます。つまり推論によって単に神が実在するということが論証されたに留まらず,神が存在するということを僕は同時に実感するのです。そしてこの実感こそが,僕が確信といっていることの正体にほかならないのです。
もちろん僕はこの論証によって,たとえばある物体が現実的に存在するというように神を知覚するのではありません。もちろんそれは想起するのでもありませんし想像するのでもありません。これが受動的感覚と能動的感覚との間の相違です。いい換えれば,僕はこの論証によって,身体の目によって神が存在すると実感することはできません。ですが僕の精神の眼は,この論証によって確かに神が実在するということを実感するのです。つまり推論によって論証した事柄を,現実的に存在すると認識することはできなくても,存在するというようには感じられるのです。そしてさらにいうならば,精神の眼によって実感することができたということ自体が,僕には神が確実に存在するということの何よりの論証になり得るのです。
ここではスピノザのいい回しに合致するように説明しましたが,この実感は僕にはリアルなものなのです。
「自卑とは悲しみのために自分について正当以下に感ずることである」。
自卑と自己嫌悪が異なるという点には注意してください。自卑は高慢の反対感情であり,自己嫌悪は第三部諸感情の定義二五の自己満足の反対感情です。
スピノザは高慢を狂気の一種とみなしましたが,自卑については明言していません。ただ,自卑的な人間は高慢な人間に最も近いといっていますので,これも狂気か,それに近い感情だとみなしていると解してよいものと思います。なぜこのふたつが近い感情であるのかということは,いずれ詳しく説明するでしょう。
第三部定理一三は,僕たちを悲しませるものを表象した場合には,その表象像を除去する傾向を僕たちが有するということを示しています。ですから人間の精神の現実的本性というものは,自卑とかその要因になる自己嫌悪という感情に対しては,それ自体で反抗的であることになります。ですから自己満足とか高慢という感情に人間が支配されることに比べれば,自己嫌悪や自卑に支配されてしまうことは稀であるといえるでしょう。そしてこれらの感情を除去するためには,第三部諸感情の定義三〇の名誉gloriaという感情が必要です。第四部定理七にあるように,感情を排除するのは別の感情だからです。なので自卑的な人間は,名誉欲が強くねたみ深いという傾向を有することになります。
第五部定理二三備考でスピノザがいっていることを僕がこういうふうに解釈するのは,それが僕の経験に裏打ちされているからです。そして経験に裏打ちされていることが,僕がこの解釈を正しいと断定できない理由のひとつにもなっています。経験による認識は第一種の認識cognitio primi generisである可能性を否定できないからです。ですがこの経験を具体的に示しておくことは有益でしょう。
第一部定理一一で神の実在が論証されるとき,僕は第三の証明が最も優れていると考えています。それは単にこの論証が論理的に明快であるからというだけではないのです。この論証によって僕が神の実在に確信をもつことができるからなのです。
神が存在するかそうでなければ何も存在しないかのどちらかでなければならず,何も存在しないというのは不条理であるから神は存在するということを論理的に示したこの論証によって,僕は神の存在に確信をもつことができるのですが,この確信は能動的感覚にほかならないと僕には思えます。つまり推論によって単に神が実在するということが論証されたに留まらず,神が存在するということを僕は同時に実感するのです。そしてこの実感こそが,僕が確信といっていることの正体にほかならないのです。
もちろん僕はこの論証によって,たとえばある物体が現実的に存在するというように神を知覚するのではありません。もちろんそれは想起するのでもありませんし想像するのでもありません。これが受動的感覚と能動的感覚との間の相違です。いい換えれば,僕はこの論証によって,身体の目によって神が存在すると実感することはできません。ですが僕の精神の眼は,この論証によって確かに神が実在するということを実感するのです。つまり推論によって論証した事柄を,現実的に存在すると認識することはできなくても,存在するというようには感じられるのです。そしてさらにいうならば,精神の眼によって実感することができたということ自体が,僕には神が確実に存在するということの何よりの論証になり得るのです。
ここではスピノザのいい回しに合致するように説明しましたが,この実感は僕にはリアルなものなのです。