スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

椿賞争奪戦&遺稿の取り扱い

2015-12-15 19:00:46 | 競輪
 伊東温泉記念の決勝。並びは菅田‐内藤の北日本,郡司‐和田‐渡辺の南関東,深谷‐柴崎の中部,脇本‐村上の近畿。
 菅田がスタートを取って前受け。3番手に深谷,5番手に脇本,7番手に郡司で周回。残り3周のホームから郡司が上昇。ホームを出るあたりで菅田を抑えました。脇本がこのラインに続いてバックでは菅田の外に並びましたが,菅田が譲らなかったので引き,菅田が4番手,脇本が6番手,深谷が8番手の一列棒状に。このまま残り2周のホームから郡司がスピードアップ。一列のまま1周が経過.ここから脇本が動いていくと和田も番手捲りで応戦。脇本はバックで一杯に。和田が先頭のまま直線に入りましたが,脇本のさらに外から捲り追い込んだ深谷が届いて優勝。半車輪差で和田が2着。和田マークの渡辺が半車身差の3着。
                                 
 優勝した愛知の深谷知広選手は10月の大垣記念以来の記念競輪10勝目。伊東温泉記念は初優勝。今年はビッグで決勝進出すらなく,デビューして最も苦しい年になりました。ですが最近はかつてのようないいレースを見せることも多くなってきていて,復調気配があります。このレベルの選手が記念競輪を2勝したくらいで復活とはいえないと思いますが,来年は完全復活の年になるかもしれません。僕自身もそうなることを期待しています。

 スピノザは死んだ場合の遺稿の取り扱いは,宿主であったスぺイクに依頼していました。その具体的な内容は,遺稿が保存してある机ごと,中身を記さずに梱包してリューウェルツへ送るというものでした。スぺイクは依頼を実行し,それらがすべてリューウェルツの手に移ったので,遺稿集の刊行が可能になったのです。この事実は,スピノザがリューウェルツに甚大な信頼を寄せていたことの証といえるでしょう。
 ハルマンは,リューウェルツが遺稿を受け取った後のことを,リューウェルツゾーンから聞かされ記録に残しました。それによればリューウェルツはその扱いについてイエレスに相談し,書簡以外の原稿は整理し,書簡については取捨分類したとなっています。これでみるとリューウェルツとイエレスですべてを決めたかのようですが,たぶん事実はそうではなく,この扱いの最終的な決定は,遺稿集の編集者になったすべての人びとの合議によって決定されたと僕は考えます。
 僕がそのように考える根拠はふたつあります。そのうちのひとつは,もしもイエレスとリューウェルツゾーンのふたりだけであったら,たぶん遺稿を整理したり取捨選別することすらままならなかったと思われるからです。というのは,原稿の大部分と書簡の一部はラテン語で記されていた筈ですが,イエレスはおそらくラテン語は解さなかったと思われるからです。というのも,イエレスはラテン語で書かれた書物を読むために,それをオランダ語に訳させていたからです。スピノザからイエレスに宛てられたすべての書簡がラテン語ではなくオランダ語で書かれていたということも,イエレスがラテン語を理解する能力に欠如していたことの証明になるでしょう。
 『神学・政治論』がオランダ語に訳されようとするのを阻止するために,スピノザがほかのだれでもなく,イエレスに依頼したというのも,この観点から理解できるかもしれません。その訳を最も読みたがっていたのがイエレスであったとも考えられるからです。だからこの書簡でスピノザがそれを望まないといっている友人は,ヨハン・デ・ウィットフッデのような政治家ではなかったかと僕は思うのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする