第五部定理四二の至福は,人間が現世において獲得することが可能なものとされています。徳の報酬として至福が来世において与えられるという考え方にスピノザは反対しているわけです。したがって第五部定理四二というのは,単に哲学的観点だけを含むのではなく,神学的観点も含んでいるといえます。
スピノザは『神学・政治論』においては哲学と神学の棲み分けを主張しています。でも第五部定理四二は,明らかに哲学的観点から神学的観点を説明しようという意図が含まれているように僕には思えるのです。もっとも,スピノザが主張しようとしたのは,哲学とキリスト教神学に限られるのであり,第五部定理四二で示されている神学が,たとえばスピノザ神学といわれるような神学であると理解すれば,大きな矛盾はないのかもしれません。第一部定義六で神が定義されているように,スピノザ神学はスピノザ哲学の一部を構成するといえなくもないからです。
スピノザは第五部定理四二を証明する際に,至福は神への愛に存するということを最初に述べています。そこで用いられるのが第五部定理三六です。
「神に対する精神の知的愛は,神が無限である限りにおいてではなく,神が永遠の相のもとに見られた人間精神の本質によって説明されうる限りにおいて,神が自己自身を愛する神の愛そのものである。言いかえれば,神に対する精神の知的愛は,神が自己自身を愛する無限の愛の一部分である」。
スピノザがここでいわんとしているのは,もしもある人間の精神が,十全な原因となって神を愛するとすれば,それは神が自分自身を愛するときの愛と何ら変わるところはない,というか同じものだということです。極言すれば,どんな事物であれ,その事物が十全な原因となって神を愛するとき,愛する主体はその事物ではなく神であるということです。
このような神への愛をスピノザは至福といったのです。他面からいえば,徳であると規定したわけです。つまり徳も至福も,哲学的概念でありつつ,神学的概念を含んでいると理解できると思います。
ファン・デン・エンデンがアムステルダムに移住する少し前,1632年にアントワープで産まれた最初の娘は,1671年に解剖学者のケルクリングと結婚しました。スピノザに関連する書物では,ケルクリンクと表記されていますが,小腸の輪状襞の別名で医学用語のケルクリング襞というのはこの解剖学者の名前からつけられたということですので,ここではケルクリングと表記します。
ふたりが知り合えたのは,ケルクリングがエンデンの学校で学んだからでした。『ある哲学者の人生』によれば,彼が入学したのは1657年,18歳のときです。目的は大学に入学して医学の研究をするためでした。1657年はスピノザの破門の翌年ですが,このときもスピノザはエンデンに学んでいたので,ケルクリングとは知り合いでした。ナドラーによれば,ふたりの関係はその後,スピノザがアムステルダムを去った後にも続き,スピノザはケルクリングの著作を何冊か所有していたとしています。スピノザは自然科学のうち,医学にはとくに関心があったとされているので,これは真実らしく思われます。一方,ケルクリングは解剖学のための顕微鏡にはスピノザが磨いたレンズを使用していたとのことです。
ここから推定できるのは,この当時,おそらく医学に限らず,大学で専門的に学習するために,ラテン語が必要とされていたということです。たぶん論文の読み書きには,ラテン語が必須であったのではないかと僕は思います。コレルスが,スピノザが最初にラテン語を学んだのがドイツ人大学生であったといっていることも,大学での研究のために,ラテン語が必要であったことの根拠となるでしょう。
ケルクリングは18歳のときにエンデンの下で学び始め,20歳のときにライデン大学に入学し,医学の研究に着手しました。つまりこのような類の需要というものが,エンデンの学校にはあったと思われるのです。あるいはそれは,僕が貴族といった支配者層の子どもたちへの需要とも,重なる部分はあるかもしれません。
これらふたつのラテン語学習の事情から,僕はエンデンの生徒の大部分は,10代後半の若者であったと判断します。
スピノザは『神学・政治論』においては哲学と神学の棲み分けを主張しています。でも第五部定理四二は,明らかに哲学的観点から神学的観点を説明しようという意図が含まれているように僕には思えるのです。もっとも,スピノザが主張しようとしたのは,哲学とキリスト教神学に限られるのであり,第五部定理四二で示されている神学が,たとえばスピノザ神学といわれるような神学であると理解すれば,大きな矛盾はないのかもしれません。第一部定義六で神が定義されているように,スピノザ神学はスピノザ哲学の一部を構成するといえなくもないからです。
スピノザは第五部定理四二を証明する際に,至福は神への愛に存するということを最初に述べています。そこで用いられるのが第五部定理三六です。
「神に対する精神の知的愛は,神が無限である限りにおいてではなく,神が永遠の相のもとに見られた人間精神の本質によって説明されうる限りにおいて,神が自己自身を愛する神の愛そのものである。言いかえれば,神に対する精神の知的愛は,神が自己自身を愛する無限の愛の一部分である」。
スピノザがここでいわんとしているのは,もしもある人間の精神が,十全な原因となって神を愛するとすれば,それは神が自分自身を愛するときの愛と何ら変わるところはない,というか同じものだということです。極言すれば,どんな事物であれ,その事物が十全な原因となって神を愛するとき,愛する主体はその事物ではなく神であるということです。
このような神への愛をスピノザは至福といったのです。他面からいえば,徳であると規定したわけです。つまり徳も至福も,哲学的概念でありつつ,神学的概念を含んでいると理解できると思います。
ファン・デン・エンデンがアムステルダムに移住する少し前,1632年にアントワープで産まれた最初の娘は,1671年に解剖学者のケルクリングと結婚しました。スピノザに関連する書物では,ケルクリンクと表記されていますが,小腸の輪状襞の別名で医学用語のケルクリング襞というのはこの解剖学者の名前からつけられたということですので,ここではケルクリングと表記します。
ふたりが知り合えたのは,ケルクリングがエンデンの学校で学んだからでした。『ある哲学者の人生』によれば,彼が入学したのは1657年,18歳のときです。目的は大学に入学して医学の研究をするためでした。1657年はスピノザの破門の翌年ですが,このときもスピノザはエンデンに学んでいたので,ケルクリングとは知り合いでした。ナドラーによれば,ふたりの関係はその後,スピノザがアムステルダムを去った後にも続き,スピノザはケルクリングの著作を何冊か所有していたとしています。スピノザは自然科学のうち,医学にはとくに関心があったとされているので,これは真実らしく思われます。一方,ケルクリングは解剖学のための顕微鏡にはスピノザが磨いたレンズを使用していたとのことです。
ここから推定できるのは,この当時,おそらく医学に限らず,大学で専門的に学習するために,ラテン語が必要とされていたということです。たぶん論文の読み書きには,ラテン語が必須であったのではないかと僕は思います。コレルスが,スピノザが最初にラテン語を学んだのがドイツ人大学生であったといっていることも,大学での研究のために,ラテン語が必要であったことの根拠となるでしょう。
ケルクリングは18歳のときにエンデンの下で学び始め,20歳のときにライデン大学に入学し,医学の研究に着手しました。つまりこのような類の需要というものが,エンデンの学校にはあったと思われるのです。あるいはそれは,僕が貴族といった支配者層の子どもたちへの需要とも,重なる部分はあるかもしれません。
これらふたつのラテン語学習の事情から,僕はエンデンの生徒の大部分は,10代後半の若者であったと判断します。