スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&ライプニッツとスピノザの知人

2015-07-23 19:09:03 | 将棋
 21日の第63期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は佐藤天彦八段が5勝,豊島将之七段が7勝。
 振駒で豊島七段の先手。横歩取りを拒否する指し方をしたところ,佐藤八段は三間飛車に。
                         
 ここで先手はおとなしくせず,▲6五歩と伸ばしました。△7二銀▲4八銀としてから△3五歩。先手は▲5六歩と突きました。この手は問題であったかもしれません。
 以下△3六歩▲同歩△同飛に▲6七銀。後手は長考して△6四歩と突き返しました。玉型は後手の方がしっかりしているので,すぐに戦いになっても構わないという考えであったと思います。
                         
 第2図では▲2二角成△同銀▲6四歩と指すのがよかったかと思います。実戦は単に▲6四同歩でした。
 △8八角成▲同玉と後手の方から交換。△6六歩は狙い筋で▲同銀は仕方がないと思います。△6七角▲5八金右△5六角成で,歩を取りながら馬を作りました。
 銀取りですから▲7七銀と引くのは当然と思えます。△5五馬で飛車取り。▲3七歩も仕方ないのでしょうが,先手玉が8八にいるため△7六飛と回ることができ後手は歩損を解消。▲7八金△7四飛と進みました。
                         
 馬を作られても歩得なら主張になり得ますが、第3図は駒の損得なし。▲6六角と打てば馬を消せますが,△6四飛と回る筋を警戒して打てませんでした。ここでは後手の作戦勝ちになっているように思います。
 佐藤八段が挑戦者に。タイトル戦初出場。第一局は9月2日です。

 ライプニッツはこれまでに紹介してきた,スピノザと関係がある人物の多くと会っています。
 『スピノザ往復書簡集』に収録されているライプニッツからスピノザへの手紙の日付は1671年10月5日。フランクフルト発になっています。ライプニッツがパリに移ったのは次の年,1672年のことでした。パリではファン・デン・エンデンに会っています。また,この時点ではやはりパリに移っていたホイヘンスとも会っているようです。エンデンやホイヘンスと,ライプニッツがスピノザについて話したことがなかったとは考えにくいと僕は思います。
 ライプニッツをパリに派遣したマインツ選帝侯の命により,ドイツに戻らなければならなくなったのは1676年。資金の提供の打ち切りを宣言されたためのようです。たぶんパリで別のパトロンを探し出せれば,ライプニッツはパリに残ったと僕は思うのですが,そうした人物が存在しなかったようで,ハノーファへ帰ることにしました。しかしライプニッツはパリからハノーファへと直行しませんでした。まず,ロンドンに行っています。ここではオルデンブルクロバート・ボイルに会っているようです。ボイルはともかく,オルデンブルクとライプニッツとの間でも,スピノザに関する話が出なかったことはあり得ないと僕には思えます。
 ロンドンから船でオランダに渡ったライプニッツは,まずアムステルダムで市長のフッデに会いました。このフッデもスピノザと書簡のやり取りをしていた人物です。スピノザはフッデには一目置いていたものと思われます。というのはスピノザからフッデに宛てた書簡三十六において,レンズを磨くための新しい磨き皿を作るにあたってのアドバイスを求めているからです。スピノザはレンズ研磨の技術にはある程度の自身を持っていたと思われますから,アドバイスを求めたということは,フッデの技術をよほど信頼していたものと推測できます。ここでもスピノザのことが話題になったと思われます。
 さらにライプニッツはドイツ人医師のシュラーとも会いました。これもスピノザと文通していた人物ですから,スピノザに関する話をしたことでしょう。
コメント
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