スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&疑問

2015-07-08 19:44:57 | 将棋
 西浦温泉で指された第56期王位戦七番勝負第一局。対戦成績は羽生善治王位が9勝,広瀬章人八段が4勝。
 振駒で広瀬八段の先手。羽生王位の横歩取り△8四飛。後手の早い段階での開戦の誘いを先手がことごとく拒否。5筋の位を取って抑え込みを目指す将棋に。後手が角と桂香の二枚換えでその網を破りました。
                         
 後手に歩を垂らされたところで,攻めも受けもありそうな局面。▲8四歩△同歩▲8三歩△同銀▲7五桂と攻めていきましたので,それで指せると考えていたのではないかと思います。
 後手は△7四銀打と受けました。▲8三桂成△同銀▲6三角。
 この角は当たりになっていないので後手は△9四香と取りました。逃げ道を作りつつと金を作ることも可能にした手。先手は▲8五歩。ただ△9八歩成に▲2八飛と横に逃げなければならないのでは,威力が激減してしまいました。△7四銀と角に当てられ,▲5ニ歩△同金▲1八角成。そこで△8五歩と取られ,どうやら大勢が決してしまったように思えます。
                         
 羽生王位が先勝。第二局は21日と22日です。

 『ある哲学者の人生』では,スピノザは遅くとも1649年,早ければ1646年前後から父の会社で仕事を手伝ったとされています。商人仲間と出会ったのもその頃だと推定できるでしょう。その仲間に触発されて,ラテン語を学ぶようになったとしても,無理な推測とは思われません。コレルスはスピノザがいつからドイツ人学生にラテン語を学ぶようになったのかは示していませんが,ジャン・ルイの手紙が書かれたとされる1650年の時点で,スピノザがラテン語を他言語に翻訳できる程度の語学力を獲得していたことは十分にあり得ると僕は判断します。
 ローンとエンデンの最初の邂逅の場面から,1654年の時点でファン・デン・エンデンとスピノザの関係が相当に深化していたことも間違いないと思います。なので,エンデンの開校が1652年であるとして,スピノザは開校してすぐないしは程なく,その学校に定期的に通っていたことも僕は確実であると判断します。
 1650年の時点で他言語に翻訳できるだけの語学力があり,ローンによればその開校の年より前にラテン語に精通していたとされるスピノザが,なぜ改めてエンデンの学校に通うことになったのかということが疑問として残ります。
 これを合理的に説明しようとすれば,スピノザの哲学的関心,とりわけデカルトへの関心を主題に据えるのがよいかもしれません。確かに哲学的用語というのは,単にラテン語を他言語に翻訳することができるという程度の能力で十全に理解することができるというものであるとは思われないからです。エンデンは自身が自由思想家でしたから,デカルトの哲学にも精通していたと考えられます。だからデカルトの哲学を読解するという目的でラテン語を習うということであれば,エンデン以上に相応しい教師は存在しなかったといえるでしょう。
 ただし,僕はこの説明は合理的ではあるけれども,全面的には支持しかねる部分があるのです。というのも,何のためにラテン語を学ぶのかを一般的な意味で考えた場合には,スピノザがそうであったと仮定したように,デカルト哲学を読解するためではないように思うからです。
コメント
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