スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋聖戦&ローンとエンデン

2015-07-04 19:36:06 | 将棋
 沼津倶楽部で指された第86期棋聖戦五番勝負第三局。
 豊島将之七段の先手で相矢倉。先手の早囲いから一時的に脇システムのような形になりましたが,羽生善治棋聖は角を引きました。先手が3筋の歩を交換したところで後手が飛車を端に寄り,後手の攻め,先手の受けという展開に。
                         
 午後4時半過ぎだったでしょうか,僕がアクセスしたとき,局面は第1図になっていました。△7五歩に金が逃げたところです。
 後手は攻めるほかなく△6四香。▲7五金に△6六銀と打ちました。
 両取り逃げるべからずと▲2四桂と攻め合いに出ましたが,先手も十分に駒を持っているわけではなく,不本意な展開だったかもしれません。△同歩▲同歩で△5七銀成。一時的に後手は攻めが細くなる可能性がありましたが、ここでその心配は不要になりました。
 ここから▲1五銀△3一桂▲8一飛△1四歩で第2図。
                         
 危うい感じがしますが,こう先手の攻め駒を攻め,さらに駒を補充しにいくのは正しい判断だったようです。先手の攻めのスピードが緩んだところで再び攻勢に出た後手の勝ちになりました。
 羽生棋聖が勝って2勝1敗。第四局は15日です。

 スピノザがどのようにラテン語を習得していったのかということについて,現時点で僕がどう判断しているのかを,綿密に説明しておきましょう。
 ファン・ローンファン・デン・エンデンは1654年4月に初めて会っています。「レンブラントの生涯と時代」にはそのときのことが書かれていて,訳出されています。そこで書かれていることのうち,エンデンが艦船の大砲の改良品の模型を携えていたことや,話しているうちにエンデンには医学に関する知識があると分かったというような内容は,エンデンに関して語られているその他の著作に一致する面があります。つまり信頼性のおける記述であると思います。
 このとき,エンデンは,ローンに会うのは初めてだけれど,ローンがどんな人物であるかはよく知っていることを話し,それはローンのことを崇拝している生徒から聞いたものだとして,スピノザの名前をあげています。またローンの方も,スピノザが,エンデンは平凡なユダヤ教のラビやユダヤ人教師の60人に匹敵するような人物であるという主旨のことを前に話していたことがあったと書いています。
 ですから少なくとも1654年,スピノザが破門される2年前の時点では,スピノザはエンデンからラテン語を習っていたし,また,スピノザがエンデンの人物像を理解することができるくらいの関係にはあったと僕は判断します。しかしその関係が,ジャン・ルイの手紙が書かれたとされる,1650年の時点まで遡ることができるとは断定できません。ナドラーが示しているように,エンデンのラテン語学校の開設が1652年であったとしても,2年の月日がありさえすれば,スピノザとエンデンの関係がその程度まで深化することは可能であると考えられるからです。
 モローの『スピノザ入門』では,スピノザが破門された後にエンデンの学校に通ったのは確実で,破門前は通った可能性はあるけれども分からないとされています。僕はこの点に関しては,モローのように分からないとは判断しません。少なくとも1656年にスピノザが破門される前から,エンデンのラテン語学校に通っていたことは間違いないと判断します。
コメント
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