スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&実体と属性の理性的区別

2015-01-12 19:34:38 | 将棋
 掛川城二の丸茶室で指された第64期王将戦七番勝負第一局。対戦成績は渡辺明王将が16勝,郷田真隆九段が9勝。
 掛川市長の振駒で渡辺王将の先手。角換り相腰掛銀に。通常の定跡とは異なった形で先後同型となり,先手の仕掛けに後手の郷田九段がすぐに角を打って反撃。本格的な戦いはこれを機に始まりましたので,後手が先攻する将棋でした。
                         
 第1図まで,実戦例があったようで,▲5五銀左というのが公式戦で初めて指された手でした。当然の△5五同銀が時間を使っての封じ手で,▲4七銀。
 先に銀損して角を取りにいく手順ですから,先手としては何か悪くなる順があっても不思議がない展開。いくら持ち時間の長い将棋でもその場の読みでは指しにくく思われ,事前にある程度の研究があったもの。後手は時間の使い方からみて,対局中はあまり考えていない手順だったのではないでしょうか。
 △3七角成▲同角△5四歩はありそうな手順と思います。推察が正しければ,研究から外れるような手順とは思いにくく,あまり考えていなかったとの感想はありますが,安心できる展開だったのではないでしょうか。▲5六歩と催促された手に放置して△6四桂と攻めていきましたが,▲8七金△7五歩▲同歩△7六銀と絡んだところで▲5五歩と取られました。
                         
 以下の手順からみて,第2図では後手が一直線に攻め切れる局面ではなくなっているようです。この手順では先手が有利という新定跡になるのではないでしょうか。
 渡辺王将が先勝。第二局は22日と23日です。

 無限に多くの実体が神という「唯一」の実体の本性を構成するというのは,たとえ形而上学上のことであれ,表現上は不適切なことこの上ありません。そもそも第一部定義三は,名目的にしか考えられないという意味において,形而上学的な定義であるといえますが,この表現はその定義に反すると思われるからです。そこでこの不適切さが,置き換えの可能性の考察では,表現上の問題にすぎないと理解して問題ないということだけは明らかにしておかなくてはなりません。
 第二部定義二が,事物とその事物の本性の区別は理性的区別であると主張していることについては,僕は間違いのないところであると考えます。一方,第一部定義四というのは,属性が実体の本性であることを示します。スピノザの哲学の定義は,定義されるものと定義内容が一対一で対応し合います。したがってこの定義は,実体の本性は属性であると解してよいことになります。
 実体と属性の区別が理性的区別であるということは,これらの条件から帰結しています。ところが第一部定理一〇備考が主張するところによれば,単一の属性が単一の実体の本性を構成するのかしないのかは,属性の概念によっては知性には把握不可能だとされています。他面からいえば,ある実体の本性が単一の属性によって構成されるのかされないのかは,実体の概念によっては知性には把握不可能だとされているのです。したがって,単一の実体の本性が単一の属性によって構成される限りでは,実体と属性の区別は理性的区別にほかなりませんが,もしも単一の実体の本性が複数の属性によって構成されるなら,その区別が理性的区別であるとは断定しきれない面があるのです。たとえば実体Aの本性が属性Xだけで構成されるなら,実体Aの観念対象ideatumと属性Xのideatumは同一であるといえます。しかし実体Aの本性が属性Xと属性Yによって構成されるという場合にも,実体Aのideatumと属性Xのideatumが同一であるとは,必ずしもいいきれないからです。
 これで実体と属性の理性的区別が特別に有している難題がどういった点にあるかが明瞭になったといえます。
コメント
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