スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

いわき金杯争奪戦&ライプニッツの反動性

2015-01-25 18:57:38 | 競輪
 強力な関東勢に地元勢が対抗できるかという図式だったいわき平記念の決勝。並びは小松崎-佐藤和也の北日本,武田-神山-後閑の関東,佐藤龍二-小埜-栗原の南関東で岩津は単騎。
 武田がスタートを取って前受け。4番手に小松崎,6番手に佐藤龍二となり,岩津は南関東を追走。残り2周のホーム手前で佐藤龍二が上昇の構えをみせるとまず小松崎が動き,ホームで武田を叩いて前に。バックで佐藤龍二が小松崎を叩き,岩津まで出きって打鐘。武田は発進するもホームでは小松崎の外。そのまま踏み上げようとしましたが,ホームの出口付近で小埜が早くも番手捲り。バックでまた武田が外から追い上げようとしましたが,さすがにスピードが上がらず関東勢は総崩れ。コーナーでインを突いて栗原をどかした岩津が直線は小埜の外から差して優勝。武田の内から捲り追い込むようなレースになった小松崎が半車身差で2着。早めに発進の小埜が4分の1車輪差で3着。
 優勝した岡山の岩津裕介選手は昨年10月の防府記念以来の記念競輪7勝目。いわき平記念は初優勝。単騎の戦いでしたので,関東を分断に出るか,二段駆けがありそうな南関東を追走するかの選択でしたが,選んだのは後者。武田が後方に置かれてかなり苦しい展開になりましたので,この選択がうまくいきました。栗原をどかして直線で伸びたのは,この選手の真骨頂であったと思います。どうしても展開次第になってしまいますが,こういう展開が想定できるメンバーのレースでは,今後も単騎であっても侮れない選手であるといえるでしょう。

 これらふたつの前提から,ライプニッツのスピノザとの対決の本質が,違った観点から捕え直されます。なぜなら,ライプニッツにとってその本質は,キリスト教神学およびその道徳をスピノザの哲学から守るためであったという点は,もしかしたら表向きのものでしかなかったかもしれず,ただ単に,自分自身の立場と地位を守るための対決であったのかもしれないからです。しかし,だからライプニッツは真剣にその仕事に取り組まなければならなかったとも考えられます。つまり実際の動機という点ではヤコービと同一視することはできないかもしれませんが,生活を賭しての対決であったとすれば,むしろその本気度はライプニッツの方がヤコービを上回っていたかもしれません。
                         
 『哲学者たちのワンダーランド』で,上野修はライプニッツの哲学は,スピノザの哲学と比べた場合にはもちろん,デカルトやホッブズと比べた場合にも反動的であると指摘しています。これ自体は正当な指摘だと僕も思います。ただ,その反動的思想は,ライプニッツの生活を守るという目的から生じたものなのかもしれないということが,僕がいっていることの主旨になります。ですからライプニッツの哲学が反動的な哲学であることには同意しますが,ライプニッツ自身が心底から反動的な人物であったということに関しては,僕は態度を留保しておきます。なお,念のためにいっておけば,上野がライプニッツの哲学を反動的だという場合にも,それは単純にライプニッツを批判するような文脈を有しているわけではありません。ライプニッツは近代哲学の父と称されることになるデカルトから始まる近代哲学が,神学を根底とする道徳的世界観を崩壊させかねないと本気で心配したために,反動的思想家にならざるを得なかったというのが上野の全体的な見解になっていて,むしろライプニッツに対して同情的であるといえるでしょう。そこで上野がいっているライプニッツの心配自体は自然なものであったと思いますが,デカルトやホッブズ,とりわけスピノザにとっては,それは無用の心配であったといえるでしょう。なので僕はこの点では,ライプニッツに同情は寄せません。
コメント
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