スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

近世哲学史点描&無限連鎖の説明

2015-01-05 19:07:43 | 哲学
 『エチカ』の自己原因causa suiの定義Definitioには,デカルトRené Descartesの哲学と関連したある「からくり」があることを示したとき,松田克進の『近世哲学史点描』に触れました。もう少し詳しくこの本を紹介しておきましょう。
                         
 『スピノザの形而上学』と同様に,こちらも論文集です。重複しているものはありません。本自体の出版は,『スピノザの形而上学』が2009年で,こちらは2011年ですから,こちらの方が新しいことになります。ただし,論文集という性格上,実際に書かれたのはこちらの方が先というものも含まれています。
 タイトルからも理解できるように,こちらはスピノザの哲学に特化したものではありません。とはいえ,スピノザ以外に触れられている主要な哲学者はデカルトだけです。8本の論文から成立していますが,とりわけ最初の2本は,デカルトの哲学だけに比重が置かれたものになっています。もっとも,スピノザの哲学がデカルトなしにはあり得なかったという点を考慮すれば,スピノザだけに興味があるという場合でも,この部分も有益でしょう。
 第三章はデカルト主義者たちについてで,第四章と第五章は,デカルトとスピノザが同じくらいの比重で取り上げられています。いわば比較論であり,自己原因についての論文はこのうちのひとつ,第五章のものです。
 第六章から第八章まではスピノザのみに焦点が当てられています。ただし,『スピノザの形而上学』と大きく異なるのは,形而上学的観点の考察ではないし,もっといってしまえば,哲学そのものの考察でもありません。第六章は精神分析についてで,第七章は環境思想について。そして第八章は決定論と感情affectusの関係についてです。つまり現代思想においてスピノザの哲学はどのように実用化し得るのかという観点が多く挿入されています。ただ,僕はそのような方向に関してはあまり興味を有していないため,内容についてはまったく評価することができないのは残念なところです。

 認識の相互依存によるパターンでも,認識の無限連鎖のパターンでも,ある実体substantiaがほかの実体によって概念されることはありません。そして僕が考えるところによれば,実体が他の実体によって概念され得るパターンはほかにはありません。よって,ある実体がほかの実体によって考えられることは不可能であると結論します。
 一方,実体の様態による概念が不可能であるということも,その前に結論されています。したがって,実体は,別の実体によって考えられることはないし,様態modiによって考えられることもないといわなければなりません。そしてこの結論は,スピノザにとって有利なものであるように思えます。第一部公理一の意味第一部公理二から,実体はそれ自身によって考えられなければならないということが帰結するといえるからです。しかしライプニッツの形而上学は,こうした結論を許さない筈です。そして同時に,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは確かに無限に多くのinfinitaモナドMonadeが実在すると主張しているのであり,自身が形而上学上はモナドが実体に該当するものであるということを認めています。つまり無限に多くの実体が実在すると主張しているのです。そして疑問の意図から明らかなように,そうした実体は同一の属性attributumによって本性essentiaを構成され得る実体でしょう。少なくともそう主張している限り,ライプニッツは何らかの仕方で実体が,あるいは同じことですがモナドが概念し得ると考えていた筈です。そうでないとこうした主張をすること自体が不条理であるといわなければならないからです。
 そこでここからは,このことをライプニッツがどのように考えていたかを考察していくことにします。つまり,ライプニッツが,モナドは何によって考えられると把握していたのかを探求します。しかしその前に,考えておかなければならないことがあります。
 認識cognitioの無限連鎖によって,あるものが考えられ得ないという結論は,実体にのみ該当するわけではありません。一般にXを認識するcognoscereときに,あるいは認識に限らず,Xが何らかの規定をされる場合に,それが無限連鎖でしか説明され得ないのであれば,その規定はあり得ないということになるのです。
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