スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ユニバーサル杯女流名人戦&人格の排除

2015-01-26 19:14:19 | 将棋
 関根名人記念館で指された昨日の第41期女流名人戦五番勝負第二局。
 清水市代女流六段の先手で里見香奈女流名人の振飛車4→3戦法。中盤で先手に重大な見落としがあったようで,おかしな手順が盤上に表現されてしまいました。
                         
 ここで先手が▲3四歩と突いたのが見落としがあったための指し手。△同飛は当然。そこで▲4五歩と打てば△3四銀と引くほかなく,▲3五銀で後手の飛車の行き場がないという読みだったようですが,▲4五歩には△同銀があります。もう一歩あればそこで△3五歩と打って先手の必勝でしょうがありません。▲4五同銀は飛車を素抜かれますから,実際にその局面になれば▲3五銀と出るほかないでしょうが,後手は飛車を引けますから完全に空振り。それでも▲3四歩と突いてしまった以上はどんなに悪くなってもそう進めるべきではないかと僕は思ってしまいます。
 △3四同飛の局面で誤算に気付いたのでしょう。▲7九角△2五歩▲3七飛△2六歩▲3五歩△2四飛という進展になりました。
                         
 ▲3五銀と出るよりはましな局面ですが先手は▲3四歩と突き出したのに▲3五歩と打ち,その間に後手は2筋を伸ばしているのですから先手がやり損ねているのは明白。勝負が決するような局面ではありませんが,この将棋の場合にはこれが致命傷になってしまいました。
 里見女流名人が連勝。第三局は2月8日です。

 ライプニッツによるスピノザとの対決の本質の動機面をどのように考えるかはともかく,ライプニッツが,少なくとも表面上はスピノザ主義に同調するわけにはいかなかったということだけは確かなことだといえましょう。そこでライプニッツはそれに対抗するための哲学を構築することになりました。僕はライプニッツの哲学に興味があるわけではないので,これを深くは探求しません。ただ,ここで必要となる点に関して,僕がそれをどのように理解しているのかということだけ,簡潔に説明しておきます。
 まず,第一部定理一七はライプニッツには受け入れることができません。これは神から人格的なものを排除するに等しいとライプニッツは理解するからです。そこでライプニッツはこれを否定するために,第一部定理二九を否定します。というか,より正しくいうならば,ライプニッツにとって最も否定しなければならなかったのは,第一部定理一七よりも第一部定理二九であったというべきだと思います。第一部定理一七を否定すれば第一部定理二九も必然的に否定されることになりますが,ライプニッツにとってより重要であったのは,神が自身の存在に関して人格的な存在でなければならないということよりは,神が万物の原因であるという意味において人格的な存在でなければならなかったということであったと僕は考えるからです。そしてそのことを明瞭に否定しているのは,第一部定理二九の方であるといえます。第一部定理一七を肯定すれば第一部定理二九も肯定しなければならなくなると僕は考えますから,ライプニッツが第一部定理一七を否定するのは間違いないといっていいと思いますが,ライプニッツの関心の中心は,第一部定理二九の方にあったと考えておくのが妥当ではないでしょうか。
 第一部定理二九のうちには,神が万物の原因であるとか,万物は神の決定を免れ得ないという意味が含まれています。そしてライプニッツもこのこと自体は否定しない筈です。ライプニッツが否定するのは,それが必然性に依拠して説明されているという点です。いい換えればその点にこそ,神から人格性の排除があるとライプニッツは考えるのです。
コメント
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